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金融論茶話(青山浩一郎):1122 かにかくに 2020.1.1

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31代。 ・・・・。 15代当主。 一門・のの子に生まれ、細川氏嫡流()当主で管領のの養子となった。 室町幕府11代(のちの義澄)より(「高」の字)を与えられ、 高国と名乗った。 弟に(高国の実子とも)、。 実子にほか、養子にがいる。 養父政元が暗殺された後の混乱()を経て、同じく政元の養子であった出身のを結果的に排除し、京兆家の家督を手中にした。 澄元とは と呼ばれる抗争を長期にわたって継続したが、管領として幕政の掌握を続けた。 ところが、細川氏の権力構造の基礎である「内衆」とよばれるの重臣達が、京兆家の抗争に伴って各々対立し疲弊した。 であるを頼ったが、大内勢の帰国後は支持基盤を構築できず、最終的には澄元の嫡男・に敗れて自害に追い込まれた。 生涯 [ ] 澄之・澄元との争い [ ] 16年()、細川氏一門・野州家のの子として誕生。 高国が当主・細川政元の養子となった明確な時期は不明であるが、・澄元の後に養子になったようで、政元にとっては3番目の養子であった。 なお、京兆家と主要な分家との間で分担してを詠む「細川千句」という儀式について、野州家分に関しては6年()以降、次第に高国が主導で行われていることから同年前後に実父の政春から野州家の家督を譲られてその際に政元との養子縁組は解消されたとする説もある。 傍証として細川氏の内紛を扱った『』という軍記物の中で が高国を京兆家の後継に推した理由に「高国未弱年之比、政元養子之契約有」と述べたと記されており、政元と高国の養子契約は元服前の幼少期の頃の話であったと記されている。 4年()6月、政元が澄之派の重臣やらによって殺されると、8月に澄元は澄之討伐の兵を挙げた。 この時高国は、澄元を支持して同族の・と共同で討伐に貢献し、澄元の家督相続を承認した()。 ところが、この一連の政変を好機と見たのは、庇護していた流れ公方の前将軍を擁して上洛軍を発した。 そこで、澄元の命令で義興との和睦交渉に当たった高国だったが、澄元に背いて義興に通じるとに逃れた。 前述の『不問物語』によれば、細川澄元に反発を強める細川一門が澄元に代わって政賢に京兆家を継がせようとした際に、細川元治がこれに反対して高国が政元の養子だった経緯に加え、実際の血縁は政賢よりも高国の方が京兆家に近い 、高国の姉婿が畠山尚順であるため尚順から援軍を得られること、何よりも本人の器量と功績が申し分ないことを理由に高国を擁立するように主張したと伝えている。 永正5年()に入ると高国は、()、、(の父)らと呼応して京に侵攻し、澄元や将軍足利義澄をに追放した。 これに対し、5月5日に高国を京兆家当主であることを承認する義稙の御内書が出されている。 その後、5月に摂津で抵抗する澄元側のを滅ぼし、は降伏を許すと称してにおびき出して謀殺した。 そして大内義興と共に入京し足利義稙を将軍に復職させ、自らは7月18日に・管領に任ぜられた。 船岡山石標 永正6年()、澄元の重臣・による京都侵攻を受けたものの、大内義興と協力して退け()、逆に近江に侵攻して勝利している。 しかし永正7年()に近江への再侵攻した際には、澄元方を支持する国人の反抗もあって敗戦を喫し、責任をとって出家しようとしたほどであった。 なおも政権奪還を諦めぬ澄元の攻勢を許した永正8年()、細川政賢 やまで加担した澄元方による京への再侵攻(、)を受ける。 そこで一時劣勢に追い込まれて丹波にまで撤退した高国だったが、澄元方の擁する前将軍足利義澄の病死などにも助けられて、8月24日のに勝利した。 永正12年()頃、高国は澄元方の反撃と摂津支配の強化を目指して、との郊外 にとを築城して、と(河原林政頼)を配置している。 永正15年()、それまで政権を支えてきた大内義興の周防への帰国によって、高国は単独で政権を運営する。 しかし永正16年()、それを好機と見たの澄元・三好之長らの摂津侵出()を許し、またも窮地に立たされる。 そして翌永正17年()2月、大内軍の不在が響いたのか敗戦して近江坂本まで退散させられた。 そこへ保身を図らんとする将軍足利義稙には、これを機に澄元と内通されてしまう。 しかし、5月には・・らの支援を仰ぎ、再度挙兵。 京へ反撃侵攻した高国勢は之長を自害に追い込み、澄元を摂津に敗走させ、政権転覆の危機を乗り切ってみせた()。 同年()には、高国と長年に亘り対立を続けてきた澄元が阿波で病死すると、高国を見限って澄元に乗り換えようとした将軍義稙の面目は失われ、敵対者のいなくなった高国は事実上の天下人となった。 なお、大内義興と細川高国には朝廷よりそれぞれ従三位と従四位下叙位の話があったが、義興は受諾したものの、高国は辞退して代わりに将軍の自邸への御成を受けている。 この後、高国は味方として武功も多かった瓦林正頼らに謀反の嫌疑をかけて殺害。 自身の地位を脅かす恐れのある者の排除に乗り出し、内部の引き締めを図っている。 永正18年()には、立場を失った将軍足利義稙が京を出奔。 このため同月22日に行われたのは、高国のもとで行われた。 これにより天皇の信任を失った義稙を排斥して、かつての敵対者であった義澄の遺児であるを擁立。 将軍不在による高国政権の存続危機を防いだ。 7月6日には亀王丸の上洛を迎え入れると、に改元後の8月29日には、亀王丸による代始の参賀を行わせた。 12月24日に元服して義晴と改名 した亀王丸は、翌日将軍に補任された。 その後、前将軍・義稙からの侵攻を何度か受けるが、大永3年()4月に義稙も死去したため、高国の勝利に終わった。 凋落 [ ] 足利義晴を擁立した高国は、管領・従四位下に任官された。 大永5年()、剃髪して 道永(どうえい)と号し、家督と管領職を嫡子のに譲って隠居した。 ただし、これは高国が厄年であったためにこれを機に息子に家督を譲ろうとしたもので、本人は隠退の気持ちを持っている訳ではなかった。 ところが12月に稙国が没したため、やむなく管領・細川家(細川京兆家)当主として復帰する。 大永6年()、に当たるの讒言を信じて、重臣のを謀殺した。 しかし、これを知った元盛の実兄(と)に背かれ、丹波で挙兵される。 仕方なくこの鎮圧に尹賢を向かわせたものの敗退。 そこへ、かつての敵対者であった澄元の遺児・(晴元)や(之長の嫡孫)にまで阿波で挙兵されてしまう。 再び畿内に進出した阿波勢に、丹波勢も加わって膨れ上がった敵対連合軍には、権力者の道永であっても効果的な対抗策を施せなかった。 嫡男であった稙国を失った道永には実父・政春が晩年に儲けた32歳も年下の弟のがいたが、既に野州家を継ぐことが決まっていた。 このため、道永は野州家よりも格上である典厩家から尹賢の子であるを養子に迎えることにし、大永6年12月27日()に晴国と氏綱の元服を同時に行った(『後法成寺関白記』)。 翌大永7年()2月には、とうとう敵対連合軍の尖兵・柳本賢治や三好元長らに京に侵攻され、で迎撃したが敗れ、足利義晴を擁したまま近江坂本に逃れた()。 こうして高国政権は崩壊した。 10月にはのに軍事支援を要請し、地位回復を目論む。 これに応えた孝景の大叔父であるを総大将とする加勢を得て、高国は上洛を果たした。 だが翌大永8年()3月には越前軍の帰国により、5月に再び近江へ逃れた。 最期 [ ] 最期の地となった広徳寺 その後、道永はのや婿で伊勢国司の、越前の朝倉孝景、のらを頼って落ち延びていた。 3年()に柳本賢治が出陣中に暗殺されると、備前と連携して京に進軍した。 京都帰還を果たすと、つぎは管領の座を脅かす晴元を倒すべく、府への出征を試みた。 ところが享禄4年(1531年)3月10日には晴元の重臣・三好元長からの反撃で機先を制されてしまい、摂津で足止めされ膠着状態()に陥った。 やがて6月になって、新たに参戦したの支援を得たかに見えたが、同月4日には赤松の裏切りに遭って高国勢は総崩れとなり、尼崎に逃走した()。 しかし、元長たちの厳しい捜索により、紺屋の甕の中に隠れているのを発見された道永は、6月8日の寅刻(午前4時)頃に尼崎ので自害に追い込まれた。 享年48。 「絵にうつし 石をつくりし 海山を 後の世までも 目かれずや見む」と言うを、北畠晴具に送っている。 死後 [ ] 高国の死後、尹賢は堺公方側へ服属するも晴元の命で殺されたが、堺公方派に内紛が勃発。 続いて晴元との対立に乗じて、高国派の残党に弟の晴国が擁立され、と結んで晴元に付いたと丹波国で戦ったが、5年()に敗死した()。 尹賢の子・氏綱は、高国の跡目と称して天文11年()に挙兵。 晴元の家臣・(元長の嫡男)と結んで晴元を追い落とし、管領に就任したが、長慶の傀儡で実権の無いまま6年()に死去。 高国系は断絶、管領も途絶した。 ただし、は『新編日本史辞典』(東京創元社、1990年)において作成した「室町幕府諸職表 執事・管領」において、細川晴元・氏綱の管領任命を事実ではないとして歴代管領から外し、高国を室町幕府最後の管領として掲げている。 また、は戦国期の管領は将軍の元服など、幕府の重要儀式の時だけ必要とされる臨時職になっており 、高国の時代には既に細川京兆家の幕府内における権力と管領の地位は分離していたとしている。 系譜 [ ]• 父:(1456-1518)• 母:不詳• 養父:(1466-1507)• 室:娘 - 高国のにあたる• 男子:(1508? -1525)• 生母不明の子女• 女子:正室• 女子:正室• 男子:• 男子:• 男子:安国寺留雲斎• 男子:(1513-1564) - の子 高国の偏諱を受けた人物 [ ] (*「高」は前述の通り、将軍・(義澄)から賜ったもの、「国」は野州家の初代当主・より取った(野州家出身者では他に(政賢の父で高国の大叔父にあたる)も使用した)1字である。 ) 近親者• (嫡子)• (高国の実弟または実子)• (もちくに、高国の息子)• (たかより、高国の息子) (その他、高国の戦死後にを頼り、その縁によりの政僧(政治顧問)となったの僧・(あんこくじ・りゅううんさい)という息子がいたとされる。 ) その他支配下にあった人物 (前述の通り、高国は室町幕府管領のほか、・・・・のを兼ねており、各国の守護代などが高国より1字を賜っている。 (、・の子での孫にあたる)• (十市国隆、十市細川氏、父は、子に、その孫にがいる)• (土佐の国人)• (出雲の守護代・次男)• (摂津の国人)• (右京亮、一族の出身)• (讃岐衆)• (土佐の国人、戦国大名で有名なの父)• (国親の三弟)• (土佐の豪族・の当主)• (貞正の子、丹波の守護代)• (高国・晴国に仕えるが、のち晴元に内通して晴国を自害に追い込んだ人物)• (高国重臣・摂津の守護代)• 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• 細川遠州家(土佐守護代家)の分家である玄蕃頭家の初代当主。 元治と子のは高国派、孫のは細川氏綱派として活動している。 典厩家は野州家よりも家格は高いものの政賢の父・は野州家からの養子で、政国の実兄であるの直系である高国の方が血縁的に優れているとみたものか。 細川政賢は高国の父・政春の従兄弟、かつ高国自身にとっても(妻の父)と血縁的にも深い関係にあった人物だが、政賢は自分の妻の兄弟にあたる澄元に加担し高国に対抗、船岡山合戦にて戦死する。 芥川は摂津国上郡(かみのこおり)の、西宮は摂津国下郡(しものこおり)の中心的都市であった。 『後法成寺関白記』永正17年2月20日に記主であるがより、同月17日付で細川澄元から(義稙側近)に充てられた義稙との連携を求める書状のを見せられてこれを引用している。 義興の決定は『実隆公記』永正9年3月26日条、高国の辞退は同3月28日条、高国邸への将軍義稙の御成は『後法成関白記』永正9年4月16日条。 「義晴」を候補とした勘文を作成したのは東坊城和長であるが、和長は「義晴」の名前に不満を抱いている(『和長卿記』大永元年7月条)。 実際には高国が自分で考えた「義晴」を強引に候補に入れさせたとみられる。 『』大永元年11月28日条に、高国が26日付で(新将軍の)管領に任じられた記事が見られる。 高国の突然の出家で幕政が混乱をきたしたために、高国は急遽細川尹賢を幕臣のの下に派遣して政務を退く訳ではないことを説明させている。 浜口説では高国の管領就任も永正18年の義晴の元服時 とし、別の論文において同年12月28日に高国の管領辞任後は室町幕府滅亡まで管領の任命は無かったとする(六角定頼の管領代就任はある)。 高国の1文字目である「高」の字を二文字目に用いることが許された理由は不明。 出典 [ ] []• 『』の説• 馬部隆弘「細川国慶の出自と同族関係」『史敏』9号、2011年。 574-581• 馬部隆弘「細川高国の家督継承と奉行人」『戦国史研究』第69号、2015年。 71-74• 馬部隆弘「細川国慶の出自と同族関係」『史敏』9号、2011年。 575• 馬部隆弘「細川澄元陣営の再編と上洛戦」『史敏』14号、2016年。 234• 天野忠幸「摂津における地域形成と細川京兆家」『増補版 戦国期三好政権の研究』清文堂、2015年。 , pp. 229-234. , pp. 91-93・227-229. , pp. 108-110. , p. 馬部隆弘 「細川晴国・氏綱の出自と関係-「長府細川系図」の史料批判を兼ねて-」、天野忠幸 他編 『戦国・織豊期の西国社会』 日本史史料研究会、2012年。 508,517-518• 西島太郎 「中世後期の在地領主研究」、中世後期研究会編 『室町・戦国期研究を読みなおす』 思文閣出版、2007年。 , p. 108. 浜口誠至 「戦国期管領の政治的位置」、戦国史研究会編 『戦国期政治史論集 西国編』 岩田書院、2017年、184-185頁。 , pp. 112-116・280-282. 参考文献 [ ]• 浜口誠至『在京大名細川京兆家の政治史的研究』思文閣出版、2014年。 馬部隆弘『戦国期細川権力の研究』吉川弘文館、2018年。 関連項目 [ ]• 1362-1366• 1367-1379• 1379-1391• 1391-1393• 1393-1398• 1398-1405• 1405-1409• 1409• 1409-1410• 1410-1412• 1412-1421• 1421-1429• 1429-1432• 1432-1442• 1442-1445• 1445-1449• 1449-1452• 1452-1464• 1464-1467• 1467-1477• 1468-1473• 1473• 1477-1486• 1486• 1486-1487• 1487• 1490• 1494-1507• 1507• 1507-1508• 1508-1525• 1525• 1526• 1536-1549• 1552-1563.

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口コミ一覧 : 【業態変更】かにかくに

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短歌は、短い言葉で歌人の心を表現する詩のひとつです。 愛好家も多く、自ら短歌を詠む人も、優れた短歌や歌集を鑑賞して心の栄養とする人もいます。 様々な歌人が多くの歌を詠んでいますが、ファンの多い歌人のひとりに、明治時代に儚い一生を生きた石川啄木がいます。 今回は明治時代の歌人石川啄木の短歌の中から、 「かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川」という歌をご紹介します。 かにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川 石川啄木 — heavenlyisland heavenlyisland 本記事では、 「かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川」の意味や表現技法・句切れ・作者について徹底解説し、鑑賞していきます。 「かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川」の句切れと表現技法 句切れ 句切れとは、一首の中での大きな意味上の切れ目のことです。 読むときも間をとっていくとよいとされます。 普通の文でいえば句点「。 」がつくところで切れます。 この歌は「恋しかり。 」のところで「。 」がつきます。 三句目に句切れがありますので、 「三句切れ」の歌です。 対句法 対句法とは、 二つの対立または類似するもの、構成やリズムの対応もさせながら、対にして並べる表現技法です。 二つのものの共通するところ、または相違対立するところを比べて、それぞれの持つ特性をより際立たせて印象付けます。 また、リズムも対応させていくことで、調子も良くなります。 この句では 「おもいでの山おもいでの川」の部分が対句になっています。 「おもいでの」を繰り返して強調するともに、テンポの良さも生み出しています。 「かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川」が詠まれた背景 この「かにかくに…」の歌は、明治 43年 1910年 12月に刊行された、石川啄木の第一歌集『一握の砂』に収められています。 五部構成の歌集の、第二部「煙」の中の一首です。 「煙」の部は、「煙 一」、「煙 二」とさらに二部の構成になっています。 この歌は「煙 二」の五十四首中十二首目にあります。 「煙 一」では、湧き上がる望郷の念を強く打ち出した後、盛岡での少年時代のこと、学生生活のこと、恩師のこと、かつての友のことなどの歌が中心です。 「煙 二」では、 都会に住む作者が望郷の念を募らせていくさまがうかがわれる短歌ではじまります。 「かにかくに…」の歌の直前の二首を紹介します。 それとなく 郷里のことなど 語り出でて 秋の夜に焼く 餅のにほひかな (意味:それなく郷里のことを家族と語り合いながら秋の夜に焼く餅のにおいに、故郷でも餅を焼いて食べたことを思い出している。 ) 都会での生活の場面で、 故郷のこと、故郷での生活を思い出している様子が歌われています。 年老いた作者の母にとっても、望郷の念はひとしおだったようです。 今回の「かにかくに…」の歌も、都会にいる啄木の故郷への思い・気持ちが沢山詰まっている歌なのです。 「かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川」の鑑賞 この歌は、 望郷の念が率直に歌い上げられた歌です。 「おもいでの山おもいでの川」という、シンプルな対句が切々とあふれる 作者の望郷の念を素直に表しています。 「おもいでの山」も「おもいでの川」も、作者を育んでくれたもの、作者の心の原風景ともいうべきものなのでしょう。 この歌を詠んだとき、作者は故郷を遠く離れた東京にいます。 東北の山や川とは大きく違う景色を見て生活しているからこそ、故郷の山や川が恋しく思われるのでしょう。 石川啄木にとって、渋民村は懐かしいばかりではなく、 挫折や落伍も味わった場所です。 しかし、そこにある大自然は拒むことなく彼を迎えてくれると信じているのでしょう。 作者「石川啄木」を簡単にご紹介! (1908年の石川啄木 出典:) 石川啄木(いしかわ たくぼく)は、明治時代に活躍した詩人・歌人です。 本名は石川一(いしかわ はじめ)と言いました。 明治 19年 1886年)、岩手県の住職の家に生まれました。 盛岡の渋民村で育ち、盛岡中学校に在籍中、 10代のころに詩歌雑誌『明星』に傾倒、歌人の与謝野晶子らの短歌を詠んで、詩歌の道を歩み始めます。 明治 35年( 1902年)に『明星』に初めて短歌が掲載され、文学で身を立てるべく上京しました。 しかし、 2年後に結核を発症し、岩手県渋民村に帰郷します。 明治 37年( 1905年)、渋民村宝徳寺住職だった父が金銭トラブルにより、曹洞宗から罷免されてしまいます。 石川一家は渋民村を追われるように出ていきました。 妻子や両親を養うため、啄木は職を転々とし、盛岡や北海道での暮らしを経て、明治 41年 1908年 、啄木は再び上京します。 東京での暮らしも楽ではなく、借金を重ねたりしながらも、新聞社に勤めるかたわら文筆活動を続けます。 明治 43年 1910年 第一歌集『一握の砂』を刊行しましたが、結核が悪化して、明治 45年( 1912年) 4月 13日、 26歳で石川啄木は亡くなりました。 啄木の死後、彼の才能を惜しんだ友人たちの尽力により、第二歌集『悲しき玩具』をはじめとして、遺稿数点が書籍となって刊行されました。 「石川啄木」のそのほかの作品 (1904年婚約時代の啄木と妻の節子 出典:Wikipedia).

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かくに家 田町店

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豚の角煮の下ごしらえ 豚バラ肉の塊は、購入するときに 脂身が多すぎず、脂と身のバランスがよいものを選ぶとよいです。 それを3〜4㎝幅に切ります。 続いて、できるだけ大きな鍋に米のとぎ汁を用意して、切った豚肉を入れて下準備の完了です。 米のとぎ汁で豚肉をゆでることで、肉の臭みが抑えられ、仕上がりがぐっと美味しくなります!• また、生姜と(好みで)ゆで玉子を用意しておきます。 これは下ゆで後に使うので、用意できるタイミングで切ったりゆでたりしておきましょう。 鍋を強火にかけ、沸いてきたら弱火にして、 蓋を少しずらした状態で30分間下ゆでします。 蓋をしたら弱火でも吹きやすいので、蓋をしてギリギリ吹きこぼれないくらいの水分量でやってみてください。 30分間下ゆでする間の中の状態は、弱火といってもとぎ汁が鍋の中で対流するくらいの火加減で行います。 30分後に火を止めて、蓋をきっちり閉め、30分蒸らします。 蒸らしが終えたら、強火にかけて沸いたら蓋を少しずらし、再び弱火で30分間ゆでます(鍋の水は取り替えずそのまま最後まで続けてゆでていきます)。 あとは同じように、時間がくれば蓋をして蒸らし、もう一度同じことを繰り返します(合計ゆで時間は1時間半、蒸らし時間も1時間半)。 少し肉が動きづらいので、ゆでるときに途中1回ほど肉の向きを変えるなどして全体に火を通し、脂が出やすくするとよいと思います。 ですので、まずは鍋を中火にかけて沸いたら火を少し弱めて30分煮ます。 もしゆで玉子を入れるのであれば、最後の2〜3分だけ一緒に煮ればOKなので、豚肉を端に寄せるか立ててスペースをあけ、玉子を入れます。 30分経ったら火を止め、少し煮汁が少なくなっているので、キッチンペーパーを上にかぶせ、そのまま冷まします。 当日でも美味しいですが、翌日に食べるのもしっかり味がしみるのでおすすめです。 冷めた鍋を弱火を少し強くしたくらいの火加減でじっくり温めます(完全に冷たいときは蓋をして蒸らしながら温めるとよいです)。 玉子があれば温まった段階で取り出して半分に切っておき、豚肉の芯まで温まれば、それぞれ器に盛り付け、練り辛子を添え、煮汁を全体にかけて完成です。 好みでゆでたオクラやチンゲン菜などを添えても美味しいです(角煮丼も美味しいですよね!)• 仕上がりの状態で煮汁から豚肉が顔を出しているので、 日持ちは冷蔵庫で3〜4日ほどを目安にするとよいと思います。 冷凍保存も可能(肉のみ)なので、せっかくならまとめて作っちゃいましょう!• 水でゆでた場合と、米のとぎ汁でゆでた場合、同時にやって比較して見ましたが、 米のとぎ汁で下ゆでしたほうが明らかに肉の臭みがなく、美味しいゆで上がりでした。 最後の煮汁で30分煮るのはちょうどよい加減だと思いますが、煮詰め加減は好みで味をみつつ調整してみるとよいと思います。

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