ばば ももこ。 馬場ももこアナが損保マンの彼氏と結婚せず破局!原因は浮気?学歴が凄すぎる

“金沢の暴れ馬”馬場ももこアナ、フリー転身の思い告白「今後も金沢を拠点に活動します!」

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馬場ももこのプロフィール 引用元:pbs. twimg. jpg 生年月日:1991年12月9日? 年齢:25歳 出身:新潟県新潟市 身長:160㎝くらい? 最終学歴:大学卒 2017年9月現在 馬場ももこアナウンサー。 テレビ金沢のアナウンサーとして活躍中ですが最近は全国区の番組にもたまに出演されています。 元はというと 全国好きなアナウンサー嫌いなアナウンサー大賞2017に出演したことにより宮根誠司さんの目に留まったのでしょう。。。 次の出演番組は宮根さんが司会をしている中京テレビの「宮根誠司VS中部10県地元じゃ当たり前! え?〇〇知らないの!?」 で持って、最近は「情報ライブ ミヤネ屋」に林マオアナの代理として呼ばれています。 放送開始まで1時間を切りました。 ですが大学を卒業してすぐに入社したわけではないようで、新潟の佐渡島のケーブルテレビの佐渡テレビジョンのアナウンサーを一年ほどしているのです。 その前の大学在学中には新潟県の NSTのスマイルスタジアムという番組内でリポーターなども経験しています。 ということは大学を卒業したのは2014年3月ということになりますよね。 浪人しないでトントン拍子に行った場合、この時点で22歳という年齢です。 そして2017年現在26歳になる歳ですよね? で、プロフィールには射手座さんだということが書いてあります。 射手座は11月23日から12月22日生まれの人の星座になります。 ですので 2017年9月現在の年齢は25歳ということになりますね。 で持って、誕生日もどこか情報転がっていないかな〜と探していたところ、馬場アナのFacebookのだいぶ最初の方に誕生日をお祝いされている画像が載っていました。 その日の日付は12月9日 なので 馬場アナの生年月日は1991年12月9日であると推測します! 馬場ももこの高校や出身大学はどこ? 馬場アナは新潟市の出身です。 高校に関しては新潟市内の高校であるというのはかなり濃厚でしょうね。 新潟市内で偏差値の高い学校というと• 新潟明訓• 新潟高校• 新潟南高校• 新潟江南高校• 開志国際高校• 新潟清心女子 この辺りでしょうか? 全くもって高校の情報はつかめませんでした・・・。 で、大学はというと大学に通っていたのは確定なのですが、新潟大学に通っていたという情報や、東京の大学に行っていたのでは?という情報が。 でも必死に探してみたらこのようなコメントを馬場アナがされていたのを見つけました!!!!!!! 私は同じ現象が大学の入学式後にありました…東京という慣れない環境で一人暮らしを始めてして最初は孤独となれない電車生活で 家に帰るまでにふらふらになりました 引用元:www. tvkanazawa. 東京の大学に通っていたのですが在学中に月に何回か新潟に帰ってきていたのでしょうか。 新潟アナウンススクールに通いながらアナウンサーになるために勉強もしていたんだとか。 宮根さんに入社3年目でこの車買えるの?と突っ込まれていたのですが、馬場アナは「佐渡島でアナウンサーしていた時の貯金を頭金にして買いました!」と答えています。 そしてなぜBMWにしたのかというのは BM(ばばももこ)のイニシャル!!!!だからだそうです(笑) この辺から暴れ馬っぷりを発揮していますよね! そして昼休みにはこのBMをぶっ飛ばして千里浜なぎさドライブウェイという海沿いの砂浜をドライブできる場所に行って愛車を走らせるのが好きみたいですね〜。 テレビ局がある場所から砂浜ドライブの場所まではおよそ40分。 往復で80分くらいかかりますが一体昼休みが何分あるのかが気になりますw でもこのドライブできっと馬場アナのストレスが発散されているのでしょう。 冬以外はいい日課だと思うのでぜひ続けて欲しいですね〜! 馬場ももこのコスプレ画像! 馬場さんはほんと体当たりでお仕事をこなしています。 普通の女子アナだったら断りそうなお仕事も自ら楽しんでやっているのできっと視聴者からも好かれるのでしょうね〜^^ 引用元:stat. ameba. jpg? west. edge. storage-yahoo. 1495025034 これからもどんどんいろんな姿を見せてくれるはずの馬場アナですが現在はテレビ金沢でレンジャーとしてこのピンクのつなぎをきてのレポートをしているようですね。 まとめ 徐々に全国区に進出してきそうな気配のある女子アナの馬場ももこアナウンサー。 今年26歳になる馬場アナですが彼氏に関してはどうなのでしょう。 なりたかったアナウンサーになってものすごく楽しんでいるように見える現在。 なんでも彼氏さんは損保会社の社員さんとラブラブでキス情報までも暴露してしまいそうな馬場アナ。 結構マシンガントークな彼女ですのでそれを受け止める寛容さがある男性、もしくは2人で喋り捲る。 どちらかでしょうね^^ 今夜くらべてみましたではまた新たな馬場アナを見れると思うと楽しみです! 面白キャラの2人も出演しますので合わせて記事をみてみてください^^ 11月15放送ではこの2人と共演!.

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馬場 ももこ

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名前:馬場 ももこ(ばば ももこ) 生年月日:1991年12月8日 出身:新潟県新潟市 勤務局:テレビ金沢 ぶっちゃけキャラでブレイクした馬場ももこ 馬場ももこアナはテレビ金沢のアナウンサーで、佐渡島のケーブルテレビで十ヶ月、アナウンサーをした後、 2015年3月にテレビ金沢に入社しました。 2017年5月12日に放送された「金曜ロードSHOW! ・特別エンターテインメント全国好きな嫌いなアナウンサー大賞2017」に出演し、 番組内で紹介されたぶっちゃけキャラが注目され、同年9月11日には「情報ライブ ミヤネ屋」にアシスタント林マオアナの代役に抜擢されました。 その後同月・11月に「今夜くらべてみました」や2018年1月14日の「行列のできる法律相談所私とあの人、どっちが悪いですか? 3時間スペシャル」など、 日本テレビ系列全国ネット番組への出演を果たしています。 担当番組としては「となりのテレ金ちゃん」にリポーターとして2017年1月から火曜MC兼務、「花のテレ金ちゃん」では「週末ナビレンジャー」担当で2016年5月まで隔週でMCを担当しています。 出典: ぶっちゃけキャラとして面白いと話題になっている馬場ももこアナですが、 実はかなりの高学歴なんです。 女子アナウンサーのほとんどが高学歴なので、馬場ももこアナも例外ではないということですね。 馬場ももこは早稲田大学出身 しかし、 高校に関しては情報がありませんでした。 新潟県新潟市出身ということもあり、市内周辺の高校ではあると思いますが確実な情報はありませんでした。 そして大学ですが、なんと大学は 早稲田大学を卒業しています。 学部についての情報はありませんでした。 早稲田大学を卒業した女子アナウンサーにはフジテレビの宮司愛海アナ、同じくフジテレビの八木亜希子アナ、セント・フォースの皆藤愛子アナ、同じくセント・フォースの岡副麻希アナなどかなり有名な女子アナばかりです。 面白さはありますが、振る舞いなどがしっかりしているのはやはり高学歴だからなのでしょう。 馬場ももこはお金持ち!? 出典: 女子アナウンサーの実家はお金持ちだということがありますが、馬場ももこアナに関してはどうなのでしょうか? 調べてみたところ、馬場ももこアナの 実家がお金持ちだという話はありませんでした。 やはり親がお金持ちなのは東京の全国ネットの女子アナウンサーだけなのでしょうか?確かに実家がお金持ちだったら地方局のアナウンサーに留まっているということはなさそうですよね。 実際馬場ももこアナは 現在でも1LDKで家賃64000円の部屋に住んでいるとテレビ番組内で紹介されていたので、特にお金持ちということもなく、普通の暮らしをしているのかもしれません。 しかし、そんな風に見えて実は愛車はBMWなんです!このBMWは自分の貯めたお金で買ったそうで、 BMWはBMW116iで350万円で購入したんだそうです。 出典: 気になる馬場ももこアナの彼氏ですが、なんと馬場ももこアナは 女子アナの中では珍しく彼氏がいることを堂々と公表しているのです。 この女子アナらしくない行動なのが馬場ももこアナの人気の理由の一つにもなっているのでしょう。 馬場ももこアナの 彼氏は損保会社で働いているらしく、なんとテレビ番組の中でも 「損保マ~ン、大好きだよー」というラブコールを送っていました。 今までこんな女子アナウンサーはいませんでしたね。 最初に彼氏がいると公言したのが2017年9月27日、その時にはまだ付き合って4ヶ月だったらしく、2回目の出演は2017年11月14日、その時も彼氏がいるという話をしていたので、 現在は9ヶ月あたりの交際期間でしょう。 そして損保会社ということで彼氏の年収なども気になりますが、一般的にに損保会社の年収は高いと言われています。 大手の損保会社で30歳あたりの年齢になると年収1000万を超えてくると言われています。 実際馬場ももこアナの彼氏がどこの損保会社に勤めているのかという詳しい情報まではわかっていませんが、高収入であることに間違いないでしょう。 馬場ももこが面白いと話題に! 出典: 彼氏に関しても堂々と公言してしまう型破りの馬場ももこアナ、現在その 面白さからかなり人気が出ている様ですね。 最近、馬場ももこアナTVで 見ますね 明るくて凄い面白い人ですよね!— たにどん mcrib1113 とにかく面白い。 賛否両論あるかも知れませんが、この人が出れば視聴率はとれるでしょう。 馬場ももこアナはなんと全国ネットのゴールデン番組で自宅を公開しています。 その自宅が全く 女子アナらしくない汚い部屋でした。 女子アナと言えば広くて清潔、女性らしい部屋に住んでそうなイメージですが、馬場ももこアナはその正反対です。 そして、世間の持っている女子アナ像に関して 「幻想ですよ。 都市伝説ですよ」と今までの女子アナのイメージを覆すコメントもしています。 そこまではまだ可愛らしい仕草にも思えますよね。 しかし、その後まさかの下ネタを披露するのです。 突然スカートから2コの金箔のゴルフボールを取り出し、MCの明石家さんまに「金沢土産です」とプレゼント。 「女子の仕掛ける下ネタやない!」と怒られるも、めげずに暴走し続ける。 引用: これに関してはもう女子アナというよりも女芸人の域に近いですね。 とは言えこれをやってしまうあたりはまさに暴れ馬という名前がふさわしいです。 女子アナとしてはタブーとされる彼氏との生活についても言及。 「駅まで送ってくれて、小鳥キッスして行きました」などと、赤裸々発言。 これにはフットボールアワー・後藤輝基が 「アナウンサーがキスの話していいの?」と絶句する。 しかし、馬場アナは「1人の人間を愛して何が悪いんですか、アナウンサーとして」と啖呵を切った。 引用: 確かにこの意見に対しては何も言えませんね。 勝手に女子アナのイメージを世間が持っているだけですから、何も悪くはありません。 更にこの他の質問にも真っ直ぐに飾ることなく対応しています。 橋下徹から「アナウンサーのイメージに挑戦しているんでしょ?」という質問が呼ぶ。 これに対し、馬場アナは 「ただ生きてるだけ、こんなこと言われると思わないんですよ」とあっけらかんと回答。 明石家さんまや東野幸治、橋下徹といった大物を前に、堂々と渡り合った。 引用: 世間から見たら「わざと女子アナのイメージを崩して注目を浴びている」という目で見られることもあるそうですが、馬場ももこアナは自分を偽らずただ自由に生きているだけということです。 普通ならこんな質問をされても綺麗な言葉で返しますが、馬場ももこアナは自分の思ったままの回答を披露していました。 まとめ ・馬場ももこはテレビ金沢のアナウンサー。 「全国好きな嫌いなアナウンサー大賞2017」に出演し、ぶっちゃけキャラが面白いと全国的に話題となった。 ・馬場ももこは早稲田大学卒業の高学歴。 出身高校は不明。 ・馬場ももこは女子アナながら彼氏がいることを堂々と公表している。 お相手は損保会社のサラリーマン。 今話題の馬場ももこアナに関してまとめさせて頂きましたが、馬場ももこアナを知らない方も馬場ももこアナの魅力がわかったのではないでしょうか?こんな型破りな女子アナ今までにはいませんでしたよね。 この先は綺麗、美人なだけでは女子アナ業界でも通用しなくなってくるのかもしれませんね。 馬場ももこアナに関しては賛否両論ありますが、これからもっとバラエティ番組に挑戦してほしいですね。 【関連記事】 ・ ・ ・.

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今夜くらべてみました馬場ももこアナ強烈キャラで激笑!そして〇〇似?

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この表はテンプレートを用いて表示しています。 編集方法はを参照してください。 ジャイアント馬場(ジャイアントばば、 - )は、の、、。 本名・旧・プロ野球選手時代の登録名は 馬場 正平(ばば しょうへい)。 血液型O型。 代表取締役社長・会長、第一副会長を歴任した。 身長209cm 、体重135kg。 は、初渡米武者修行中の1961年、のであったが ババ・ザ・ジャイアント Baba the Giant と命名したことに由来する。 新聞のラテ欄では文字数の制約から「G馬場」と表記される事もある。 日本界史上最大の巨体を持ち、、と並ぶビッグネームでもあり、やテレビ番組などでも人気を博した。 現役時代は、当時の世界最高峰の王座であるに3度就いた。 幼少の馬場とその家族(1943年より前) 1938年、四日町に八百屋を営む父・馬場一雄、母・ミツの間に次男として生まれる。 四日町国民学校(卒業時には三条市立四日町小学校)に入学後、野球を始める。 入学までは体格は小さいほうで、入学時の集合写真でも一番小さい児童のグループに収まっていたが、3年生頃から急速に大きくなりはじめ、4・5年生の頃には既に身長が175cmほどあり 、地元の少年野球団「若鮎クラブ」ではエースを務めた。 三条市立第一中学校時代には中越地区大会で優勝している。 1953年、(のちの新潟県央工業高校)機械科入学後、身長はさらに伸び、190cmにもなっていた。 この頃は足も尋常でない大きさになり、自分に合うスパイクがないという理由で、当初は硬式野球部入部を断念し、一旦、美術部に入部した。 その後、特注のスパイクを与えられることとなり、念願の硬式野球部に入部。 エースとしての活躍はめざましく練習試合ながらも18奪三振を記録するなどし、1954年、高校2年のときにはで「巨漢馬場投手を擁する三条実業高校」と報じられ優勝候補の一角と目される存在になっていたが、予選で敢え無く敗退し出場は叶わなかった。 この頃、バッテリーを組んでいた捕手の誘いでプロ野球球団・の入団テストを受ける話が進んでいたが、同年10月にのスカウト・源川英治に誘われ、高校を2年次で中退し、翌1955年1月に巨人にとして入団する。 は59。 同期入団に時代を支えた主力選手となる、などがいた。 プロ野球選手時代 [ ] 馬場自身は新潟県第1号のプロ野球選手と誤認していた。 監督の「若手は二軍でスタートし、基礎作り」という方針のため、二軍での基礎練習を行っていたが、2年目となる1956年には二軍で12勝1敗、翌1957年に13勝2敗の成績を収め、2年連続二軍の最優秀投手賞を受賞した。 1957年10月23日、中日戦でようやく一軍で初先発の舞台を踏む。 中日のエースのだったとの投げ合いとなり、5回まで無失点で抑えるものの敗戦する。 同試合は杉下の200勝達成試合になった。 この試合の直後、視力の急激な低下に見舞われる。 診察の結果、「」(により圧迫)と判断され 、同年12月23日にで開頭手術を受けた。 当時の技術では成功率が非常に低く、医師から「失明する可能性が高いので、目が見えているうちにマッサージ師の勉強をしておきなさい」と勧められた程だったが、手術は無事成功。 1週間で退院し、翌月には頭に包帯を巻いたままに復帰した。 1958年には目立った活躍は見せなかったが、翌1959年には3度目となる二軍の最優秀投手賞を受賞した。 しかし、馬場を評価し後ろ盾となっていた投手コーチが退団したこともあり、同年オフに巨人を自由契約となった。 巨人には5シーズン在籍し、1軍登板は1957年の3試合のみ、うち1試合が先発、通算成績0勝1敗防御率1. 29(NPB公式記録)。 1960年1月、巨人からに移籍した谷口五郎コーチの誘いで、大洋のキャンプにテスト生として参加し、採用内定を受けていた。 に転居するなど移籍準備を進めていたが、宿舎の風呂場で転倒、身体ごとガラス戸に突っ込み、左肘に17針を縫う外傷を受傷し、一時期、左手の第三指および第四指の関節が伸展出来ない状態が持続したため、プロ野球選手継続を断念した。 なおこの症状は後に自然治癒している。 年度別投手成績 [ ] 3 1 0 0 0 0 1 -- --. 000 26 7. 0 5 0 0 0 0 3 0 0 1 1 1. 29 0. 71 通算:1年 3 1 0 0 0 0 1 -- --. 000 26 7. 0 5 0 0 0 0 3 0 0 1 1 1. 29 0. 71 背番号 [ ]• 59(1955年 - 1959年) プロレスへの転身 [ ] スポーツを続けたいという一心で、野球選手の継続を断念した後も、自宅アパートの近くにあったボクシングジム・でトレーニングを行っていた。 1960年3月、巨人時代に面識があったに会いにを訪ねるが、力道山はブラジル遠征中のために不在であり、この際に馬場と同じく元野球選手の経歴を持つからプロレス入りを薦められる。 翌4月11日、ブラジル遠征(同遠征中、力道山はをスカウトしている)から帰国した力道山に日本プロレスへの入門を直訴。 力道山からヒンズースクワット100回を命じられるが難なくこなし、その場で入門が決まる。 このとき、通常練習生には支給されない給料を、巨人時代と同額の月給5万円(当時の大卒初任給は1万6千円程度)と即決されたが、翌月から「試合をしていないのに多すぎる」と3万円に減額される。 修行時代に、入門が一年先輩のや同期の猪木と三人でを行ったときは、床に垂れた汗で水溜りができたという伝説も残っている。 日本プロレス時代(新人時代 - 全盛期) [ ] 1960年9月30日、台東体育館にてとのシングル戦でデビューし、股裂きでギブアップ勝ち。 なお、同日に猪木もデビュー戦を行っているが、猪木はに頭突きの連打をくらいフォール負けしている。 デビュー直後はが苦手であり、同年は18勝7敗を記録しているが、そのうち5敗は芳の里からである。 1961年には、ワールドリーグで力道山と優勝を争ったミスターX()ら、強豪外国人レスラー連との試合が組まれ、いずれも勝利することは出来なかったものの、試合内容を評価した力道山により渡米しての武者修行を命ぜられ、同年7月、芳の里、らとに渡る。 短期間でメジャーなテリトリーにおけるメインエベンターに成長し、数々のタイトルに挑戦した。 アメリカ時代のリングネームは、では ショーヘイ・ビッグ・ババ、では ババ・ザ・ジャイアント。 とある試合で戦ったのマネージャー、をが馬場の元に引き抜き、アメリカでの師匠とした。 馬場はアトキンスの元で多くを学ぶことになった。 1962年6月、シカゴにおいて、だったに勝利し、一旦NWA世界ヘビー級のベルトを腰に巻き、その後の連戦(5連戦が組まれていた)で防衛を果たすも、第4戦目で観客がリングに乱入する騒ぎが起こり、その日の試合全てがコミッショナー預かりになり、また、第5戦目の試合前の控室で、ビル・ミラーとが、バディ・ロジャースを急襲して外傷を負わせたため、第5戦目は行われず、結局、このときは正式にNWA世界ヘビー級王者として記録されなかった。 1963年2月にはロサンゼルスにて、世界ヘビー級王者だったとタイトルマッチを行い、デストロイヤーに勝利したものの、反則勝ちであったため、規定によりタイトルは移動しなかった。 この遠征時代に馬場は、飲み屋のに唯一入っていた日本の楽曲だった、の『SUKIYAKI()』を流していたという。 後年、全日本プロレスの試合会場で、全試合終了後に同曲が流されるようになったのはこれに由来する。 第五回ワールドリーグ戦出場の外人レスラー招聘の交渉を主目的に渡米していた力道山とともに、1963年3月に凱旋帰国。 この際、新聞社がアメリカ時代のリングネームだったババ・ザ・ジャイアントをもとに ジャイアント馬場と書くようになり、この名前が定着する。 馬場は、それまでの日本人レスラーにはみられなかったスケールの大きいアメリカンプロレスのスタイルで、やなど当時の超一流外国人レスラーと名勝負を演じ、また、師匠力道山との師弟タッグ等で活躍して、初めて正式出場したワールドリーグ戦でも好成績を残すなど、初渡米武者修行の成果をファン、マスコミに強烈にアピールし、人気を博した。 同年10月に再びアメリカに遠征。 同年12月に力道山が死去し、遠征中のアメリカから帰国する。 帰国の際にグレート東郷から、「力道山死後の日プロは先行きが怪しい、高額の年俸(当時の額で1億円弱)を保障するのでアメリカに定住するように」と勧められたが、金銭の問題ではないからと断り帰国している。 アメリカでの生活で売れっ子だったレスラーが怪我をして試合が出来なくなり、何の保障もないまま生活苦へ陥る姿も見ているので、いくら高額の年俸を稼いでも同じようになったときのことを考えて断ったという理由もあった。 1964年には、アメリカでNWA()、()、WWA()の当時の三大世界タイトルに連続挑戦した。 これは世界の強豪レスラーの誰しも果たせなかった破天荒な大金字塔的偉業であり、馬場の世界的名声の基盤を形成した。 同年4月に凱旋帰国し、翌月にはとのタッグで第11代を獲得。 力道山亡き後の日プロを豊登・馬場の二枚看板で支えることになった。 1965年11月には、に反則勝ちし、力道山以来、エースの象徴とされたを獲得した(初代ルー・テーズ、二代目力道山、三代目馬場)。 ベルトそのものは馬場の王者戴冠を機に新調され、力道山が所有していたベルトは、後の全日本プロレス旗揚げ時に馬場に寄贈されるまで、力道山家により保管された。 ブルーザー相手に、1-1のドローながら初防衛も果たし、名実ともに日プロのエースとなる。 同年12月、豊登が放漫経営の責任を取り日プロの社長を辞任し、日本プロレスから去った。 1966年2月、ルー・テーズ戦で、2フォールによる勝利でインターヘビー級王座を防衛し、馬場の実力はさらに高く評価された。 以後、馬場は、当時の世界の超一流強豪レスラーを相手に、インターヘビー級王座を守り抜き、力道山のインターヘビー級連続防衛記録も更新し、エースとして君臨し続ける。 ワールドリーグ戦においても通算6回の優勝を果たして力道山の記録を更新している。 馬場とともに日プロ黄金期を支えた猪木は、両者の実力の比較がファン、マスコミの間で取り沙汰されることが顕著となった1971年、ワールドリーグ戦の決勝戦中(馬場とで争われ、馬場が勝利して通算5回目の優勝を果たし、力道山の記録に並んだ)、インターヘビー級への挑戦を表明したが、時期尚早として却下された。 1966年にハワイで、豊登が猪木を「馬場がいる限り日本プロレスのエースにはなれないと」口説いてに引き抜く、猪木略奪事件が起こり、猪木は東京プロレスに引き抜かれるものの、短期で東京プロレスが内部分裂を起こしたため、猪木は翌1967年5月に日プロに復帰。 復帰の際には「猪木は豊登に騙された」からと寛大な措置が取られたことから、猪木と本格的にタッグを組むようになり、1967年10月にを獲得した際に という呼称が定着した。 BI砲は当時、プロレス史上最強タッグの一つと称えられ、圧倒的な勝率を誇り、インタータッグ王者チームとして看板タッグとなった。 その他、この時期に馬場が組んだタッグチームとしては、と組んだ 東京タワーズなどがある。 実況アナウンサーのは、1970年頃までは馬場を巨人軍に在籍していたためか、「 ジャイアンツ馬場選手」と実況では呼称していたが、その後は「ジャイアント馬場選手」と実況するようになった。 猪木のクーデターと放送問題 [ ] 1971年、日本プロレスの経営方針やレスラーの扱いなどに不満を覚えていた猪木と当時の後援会長が独自に改革案を製作し、馬場も含め多くの選手が賛同し、これを幹部に突きつけ、経営陣の刷新を図ろうとしていた。 同年11月30日、流れに疑問を感じていた馬場がを捕まえて問いただしたところ、経営陣の刷新後は馬場も追い出す計画もあることを知り、馬場が経営陣にその旨を伝えた。 猪木の行動は経営乗っ取りを狙ったクーデターとみなされ、12月13日に猪木は日プロを除名された。 また、日本プロレスは長年、日本テレビでのみの中継放送を行っていたが、グレート東郷とルー・テーズの会社がアメリカのプロレスを放送させようとに企画を持ち込んでいたのを脅威に感じ、1969年5月からNETテレビでも放送を始める。 当初は日本テレビは馬場・坂口征二、NETテレビは猪木という棲み分けが出来ていたが、その後なし崩し的に坂口の出場試合がNETテレビでも放送されるようになり、さらに猪木のクーデター以降はそのバランスが崩れることになった。 日プロは取締役会で、取締役の一人だった馬場自身の反対を他の取締役が押し切る形で、NETテレビで放送される試合に馬場を出すという判断をし、日本テレビ及びスポンサーだったに恩義を感じていた馬場は、1972年7月29日に辞表を提出した。 その後も長年NETテレビおよび同局の後身のテレビ朝日への出演は少なく、最晩年の『』、『』(『最後の晩餐』)などの数本のみである。 一方テレビ朝日系列局制作の番組には、『』() などへの出演があった。 全日本プロレス時代 [ ] 10月に日本テレビ・三菱電機の後押しで全日本プロ・レスリング株式会社を旗揚げした。 馬場は全日本旗揚げに際して、日プロ時代に保持していたタイトルを全て返還しており、全日本旗揚げ後より、団体の看板となるシングル王座の確立のため、世界の強豪レスラー連と、全日本プロレス認定世界ヘビー級王座(後の)争奪戦を開始。 合計10戦において8勝0敗2引き分けの戦績により、馬場が初代王者として認定された。 なおこのシングル王座のベルトとして当初使われたのは、力道山が所有していたインターナショナル・ヘビー級王座のベルトであり、全日本旗揚げ時に力道山家より馬場に寄贈されたものである(後に新調され、オリジナルは、ヒューストンのプロレス博物館に寄贈された)。 馬場は、このPWFヘビー級王座を38回連続防衛を含んで長期間保持し、PWFヘビー級王座は、全日本時代の馬場の代名詞とも言うべき看板タイトルとなり、後に、インターナショナル・ヘビー級王座、UNヘビー級王座とともに、全日本三冠タイトルの一つとなった。 創立1年強の1月には早くも、、とNWAの現・前・元王者を招聘し、日本陣営の馬場本人や成長著しい、ザ・デストロイヤーとの組み合わせが展開された。 同年12月、ジャック・ブリスコを破って、当時世界で最も権威があるとされたNWA世界ヘビー級王座をアジア人として初めて獲得する。 PWFヘビー級王座と二冠を賭けたダブルタイトルマッチで勝利し初防衛を果たすも、再々戦で敗れた。 とにもハーリー・レイスを破って、結局、通算3回、NWA世界ヘビー級王座を獲得したが、このときはいずれも翌週の再戦では防衛を果たせなかった。 全日本プロレス入門第一号で、一番弟子であるジャンボ鶴田は、馬場の期待を大きく上回る程の急成長を遂げ、馬場・鶴田の最強師弟コンビは、長年に亘ってインタータッグ王座を保持し、全日本プロレスの暮れの定番イベントとなったにおいても、通算2回の優勝を果たした。 1979年8月26日、日本武道館にて行われたにて、アントニオ猪木と一夜限りでBI砲を復活させ、アブドーラ・ザ・ブッチャー、組と対戦し勝利した。 4月、を相手に通算3000試合目を達成。 デビューから丸20年目だった。 記者から後に知らされ、「最初から分かっていれば、まともな相手を選んでいた」とコメント。 9ヶ月後の、1月には「ジャイアント馬場3000試合連続出場突破記念試合」を開催し、との間で自身の保持するPWFヘビー級王座とガニアの保持するのダブルタイトルマッチを行う。 結果は3本勝負で行われ1-1のドローで両者王座防衛。 2月に行われたPWFヘビー級選手権試合で初対決、死闘を繰り広げたが、両者反則による引き分けとなった。 7月、ハンセンに敗退し、PWFヘビー級王座から転落したのをきっかけにタイトル戦線から退いた後は、社長業やタレント業に比重を移しながらも義弟を自認するやとを結成し、との抗争を開始し、で「明るく楽しいプロレス」を展開し、最後の試合が行われた12月5日までリングに上がり続けた。 アントニオ猪木率いる新日本が異種格闘技戦など斬新な企画を次々と打ち出しても、馬場は年8回のシリーズと全国巡業という型を続けていた。 生涯で通算5769試合を行った。 1995年1月、のの実家がの被害に遭い、運転手の、専属秘書のらと家の片付けに向かった。 関西地区の被害を目の当たりにした馬場は、ガスコンロや生活用品を買い集めた後関西地区に住んでいる全日本のファンクラブ「キングスロード」会員の名簿を取り寄せ、一軒一軒へ馬場自らが出向き、生活用品を差し入れて回ったという。 1998年には、全日本の興行で募った震災義援金を明石ロータリークラブに寄付し、その寄付金で巨人軍時代のキャンプ地でもあったが在る内に『阪神淡路大震災記録碑』を建立している。 1995年3月に渋谷店が移転しメガストア化した際の宣伝ポスターに、上を見上げる馬場がモデルとして起用された。 晩年巨人のOB会へ出席した際、先輩のに「おーい、馬場! 」と手招きされた際、大喜びで後ろから抱きついた。 このため馬場がおんぶされるような格好で甘えているように写るという珍しい構図になった。 目上から呼び捨てにされる機会がほとんど無くなり、久しぶりのことだったのでとても嬉しかったという。 亡くなる前年には巨人阪神のOB戦に巨人OBとして出場。 にランナーとして出るも牽制でアウトになり王貞治から「馬場さん頼むよ〜」と和やかな雰囲気で試合を楽しんだという。 プロレス興行では大会場での試合、地方での売り興行関係なく入場口近くの売店の椅子に座り、グッズを購入したファンにサインを書いたり、記念撮影に応じてフレームに収まったりしていた。 馬場死後の全日本プロレスでは、愛用だった椅子を置いている。 闘病生活と、その死 [ ] 16時04分、入院先のにおいて、(腺癌)のによるのため61歳で死去。 戒名は「顕峰院法正日剛大居士」。 墓所は兵庫県明石市の本松寺。 元子夫人の意向により外部には馬場の病状やその生命が危ないことを一切漏らしておらず、当時全日本の取締役に就任していたや、全日本の重鎮だったやにさえも知らせていなかった。 馬場の最期を看取ったのは元子、姪の馬場幸子(全日本プロレス取締役)、実姉のほか、で運転手の和田京平、で専属秘書の仲田龍の5人だけであった。 死後 [ ] 1999年4月17日、前日(4月16日)に開催された最終戦のリングが設定されたまま、でファン葬が催され 、2万8,000人が参列した。 同年5月2日、全日本二度目の興行において「引退記念試合」と銘打ったセレモニーを行った。 ハンセンを先導にかつてのライバルや盟友が登場。 ジャイアント馬場、ザ・デストロイヤー組対、組の時間無制限一本勝負というマッチメイクで、会長のが立会人、ジョー樋口が特別レフェリーをそれぞれ務めた。 仲田龍がリングアナウンサーとして、涙声で馬場への最後のコールを行うなど、セレモニーはあくまでも「試合」として扱われた。 ゲストからのメッセージで、キニスキーは「偉大なスポーツマン、アスリート、本物のプロフェッショナル・レスラーだった。 あなたと日米で闘えて誇りに思う」と、またサンマルチノは「あなたは体だけでなく心もジャイアントだった」と称えた。 パートナーのデストロイヤーは日本語で「社長、ほんとうにお疲れさまでした」と深々と頭を下げ、会場中の涙を誘った。 追悼の10カウントゴングが鳴らされた後、リング中央に置かれた愛用のシューズをデストロイヤーがつかんだ瞬間に、実況を担当した日本テレビアナウンサーのは、「デストロイヤーが、いま馬場とがっちりと握手を交わしました。 共にリングを去ります馬場とデストロイヤーです」、「プロ野球・巨人軍のを夢見たかつての少年が、レスラーとして選んだ最後のリングは東京ドームでした」とコメントした。 2006年12月にがリニューアルオープンし、馬場(走路)が大型化された。 このリニューアル記念ポスターの1つでは「大きな馬場」が完成したことをもじり、「12・2 ジャイアント馬場、登場。 」というコピーと、競馬場全体を踏みつけるような巨大レスラーブーツの画像が用いられた。 にはレスラーおよびプロモーターとしての功績をたたえ、に迎えられた。 、故郷である新潟県三条市議会の9月定例会に於いて『 ジャイアント馬場(馬場正平)を三条市名誉市民に決定する議案』が、市長より提出され、市議会本会議にて全会一致で承認された。 に三条市役所で名誉市民顕彰が執り行われた。 馬場は生前、の境内にある元子夫人の実父(馬場からすれば義父)の墓の隣に馬場家の墓を建立してあったのだが、その事実は長年知られておらず、かつ当の馬場の遺骨は元子が自宅に保管していて長らく納骨されないままであったため、「墓を作らないのか」という声もあったとされる。 元子が自身の生前に納骨をしなかったのは、馬場が墓を建てるにあたって「一緒に墓に入ろう」という約束をしていたためであった。 馬場の死から約19年後のに元子が死去し、その四十九日に合わせて共に葬られ、二人の約束はようやく果たされることとなった。 得意技 [ ] 恵まれた体躯を生かし、主に、相手のロープの反動を利用したカウンターキックである「16文キック」をはじめ、「空手チョップ」「河津落とし」「ココナッツクラッシュ」など、長身からの落差と重力、相手の力や体重を利用した技を得意技とした。 馬場の代名詞的な技。 ロープに振った相手が反動で返ってくるところにカウンターで蹴りを叩き込む。 1962年、アメリカ遠征時代にと組んだタッグ戦で、に偶然左足が出たのがきっかけになっている。 馬場自身は当初技とは考えていなかったが、日本で人気が出てしまったために頻繁に使うようになった。 1964年の海外遠征の際にに本格に蹴りを学び、自分から踏み込んで蹴りに行くパターンも生まれた。 タッグマッチでは、東京タワーズで組んだ坂口征二や師弟コンビで組んだジャンボ鶴田とは肩を組んでダブルのカウンターキックをよく出しており、坂口とのダブルキックは「31文」と呼ばれた。 1964年のジョージ土門との修行で蹴りのコツを得たことから、ドロップキックにも挑戦することにし、ドロップキックの名手であるが練習相手になってくれたことで知られる打点の高いドロップキック。 1965年1月から使用。 全盛期は大一番で使用していた。 フォームとしては、やや下方から上方へ突き上げるような形で繰り出す。 『32文ロケット砲』の名称は、清水一郎アナウンサーの実況から生まれた。 清水アナは他にも「大型弾道弾ドロップキック」や「キック」、「宇宙衛星船キック」という形容で実況した。 馬場の師匠でもあった力道山が得意としていた空手チョップの応用技で、相手の脳天に垂直にチョップを振り下ろす。 特徴としては手刀の指の部分ではなく、手の付け根の骨部分で叩く。 1963年、馬場が遠征中に泊まった旅館で、に頭をぶつけたときの激しい痛みからひらめき、力道山に「敵の脳天に手刀を放とうと思うんですが」と相談したところ、「危険な技だ。 相手が死んでしまうぞ」と制止されていたが、1965年の戦で、初対戦でブルーザーのタフガイぶりにあきれた馬場が「ブルーザーならまあ死なんだろう」と解禁したという。 後に戦で失敗したところ、耳に直撃し流血させたことから、派生技として「耳そぎチョップ」が生まれた。 子供たちの遊びで往年耳にすることがあった、俗に言う「馬場チョップ」とはこの技のことである。 大きくジャンピングしながら放つ場面もあった。 (ジャイアント・バスター) の技「」をさらに攻撃型に改良した技。 力道山がの対策として河津掛けを披露していたが、馬場は自分の片足を相手の片足に掛け、跳ね上げながら相手の首を抱えて後方に反って倒し後頭部を打ちつける技に昇華させた。 なおこの技は後年弟子であるも多用した。 馬場は「かけるのは自分より背の低い相手じゃないと、相手の頭部を抱えている自分の腕がクッションになって効果が半減する」と解説していた。 股割き(レッグスプリット) 主に若手の頃に多用されていた関節技。 相手の両足を掴み、股を強引に開かせることによって痛みを与える、単純明快な技。 デビュー戦も田中米太郎に対し、この技で勝利した。 ロープに振った相手が反動で返ってくるところに、自ら走りこんで首に左腕を掛け倒れこみ、相手の後頭部をマットへ叩きつける。 1969年にドリー・ファンク・ジュニア戦で16文キックのタイミングを間違えた際に偶然生まれたもので、ジャック・ブリスコやハーリー・レイスを相手にこの技でNWA世界ヘビー級王座を獲得したことで知られる、馬場のオリジナル技であり必殺技。 この技もまた大一番でしか見られない技で、主にレイスとの試合では必ずといっていいほど使用していた。 ココナッツ・クラッシュ(ヤシの実割り) のような体勢で相手の頭を抱え込み、自らの膝に押しつけ、相手が反発する力を利用し、膝を上げて、相手の首をねじりながら前方に倒す技。 後年、弟子のが多用した。 いわゆる尾てい骨砕き。 全盛時によく使っていた技で、日本人で最初に公開したのは馬場である。 (シュミット式背骨折り) この技も全盛期にはよく使っていた。 この技からジャイアント・バックブリーカー(後述)に移行することが多かった。 (腕折落とし) 相手の手首を掴みながら腕にまたがり、そのまま全体重をかけてマットに相手ごと落とす技。 かつてとのシングルマッチにてこの技を連発し(6発打っている)、レフェリーストップに追い込んだことがある。 (波乗り固め) 相手の背後から仕掛ける。 相手の両腕を掴み、背中の方で引っ張り上げて痛めつける。 2mを超す長身のため威力は抜群で、アメリカ遠征中によく使っていた。 猪木も得意技だったが、馬場のコブラツイストに対抗するために猪木はを使い始めたという。 1985年のPWF戦でからギブアップを取るなど晩年まで使い続けた。 全盛期のフィニッシュ技として好んで用いられた。 ジャイアント・ギロチン・ドロップ() 同じく全盛期のフィニッシュ技。 (巨人式背骨折り) 馬場のオリジナル複合ストレッチ技。 スタンディングで後方からを決め、そのまま相手体を反らせながら自らの片膝をマットに付け、相手の背中を自らの片膝頭に押し付ける。 アメリカ修行時代に、当時スーパースターだったと対戦した際、スタンディングでこの技を決めてロッカを落としてしまった。 蔵前国技館でのの防衛戦で、フレッド・ブラッシーをギブアップさせたこともある。 上記の他、などやスロートクローなどの「拷問技」も得意とした。 、、などの技も使っているほか、大柄な体格に見合わずトップロープからのフライングボディアタックなどの空中技も使用していた。 晩年は流行技やライバル・弟子の得意技をまねて用いることも多く、およそ馬場の技は外見上なんら変わりがなくとも冠に「ジャイアント」と付いて独自の必殺技としてファン・マスコミに認識された。 「」「ジャイアント」などはその典型例である。 また、ハンセンとのタッグ時のみ限定で、16文キックとウエスタン・ラリアットを組み合わせた「ジャイアント・コンビネーション(後述)」も披露した。 と組んだときは16文からアンドレのエルボー・ドロップ、と組んだ場合は16文と木村のラッシングラリアットというコンビネーション(通称・16文ラリアット)になった。 ジャイアント・コンビネーション・A ハンセンが相手をハンマースルーし、そこに馬場が16文キックを叩き込む。 その後、馬場が弱った相手を再度ハンマースルーし、そこにハンセンがウエスタン・ラリアットを叩き込む。 ジャイアント・コンビネーション・B ハンセンが相手をハンマースルーし、そこに馬場が16文キックを叩き込む。 その後、弱った相手が振り返った瞬間に、ハンセンがウエスタン・ラリアットを叩き込む。 Aよりも、技の回避が難しい。 また、対スタン・ハンセン用に開発した技に『 16文チョップ』があり、テレビ中継での解説でそのことは何度も取り上げられていたが、実際に使われることはなく、幻の技となっている。 漫画『』では、トップロープに上った馬場が空中で一回転し、遠心力を利用した踵落としを相手の脳天に叩き込むといった破天荒な技だったが、実際にはどのような技であったのかは不明。 記録 [ ] 主な戦績 [ ]• 9月30日 - 田中米太郎とのシングル戦でデビュー、股さきで勝利。 5月25日 - 猪木寛至(後のアントニオ猪木)と初対決、で勝利。 7月1日 - 芳の里、マンモス鈴木とともに海外修行に出発。 3月9日 - シカゴ、インターナショナル・アンフィ・シアターでの持つNWA世界ヘビー級王座に挑戦するが、2対0のストレート負けで王座奪取ならず。 2月4日 - 、でザ・デストロイヤーの持つWWA世界ヘビー級王座に挑戦。 反則勝ちを収め試合には勝利するも、規定により王座獲得ならず。 3月17日 - 力道山とともに海外修行から帰国。 直後の第5回ワールドリーグ戦に出場。 10月7日 - 2度目の海外修行に出発。 2月5日 - 、オリンピック・スタジアムでルー・テーズの持つNWA世界ヘビー級王座に挑戦。 2対1で敗れて王座獲得ならず。 2月17日 - ニューヨーク、でブルーノ・サンマルチノの持つに挑戦するが、時間切れ引き分けで王座奪取ならず。 2月28日 - ロサンゼルス、グランド・オリンピック・オーディトリアムでフレッド・ブラッシーの持つWWA世界ヘビー級王座に挑戦。 時間切れ引き分けで王座奪取ならず。 4月3日 - 2度目の海外修行から帰国、第6回ワールドリーグ戦に参加する。 5月29日 - 豊登とタッグを組み、ジン・キニスキー、と対戦し勝利。 アジアタッグ選手権王者に就く(初のタイトル奪取)。 11月24日 -ディック・ザ・ブルーザーと対戦し勝利。 インターナショナル・ヘビー級王座を獲得。 10月31日 - アントニオ猪木と組み、、組と対戦し勝利。 インターナショナル・タッグ選手権を奪回(BI砲初タイトル)。 6月27日 - を三十二文ドロップキック三連発で破り、2日前に奪われたインター王座を奪還。 12月7日 - 猪木とタッグを組んでの最後のタイトル戦。 ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク組に敗れる。 12月17日 - ロサンゼルス、グランド・オリンピック・オーディトリアムにて、とタッグを組み、&組を相手に生涯唯一のを戦う。 5月19日 - ロサンゼルス、グランド・オリンピック・オーディトリアムで坂口征二とのタッグでザ・ファンクスからインターナショナル・タッグ王座を奪回。 以後2度防衛した後、日本プロレス退団に伴い王座返上。 10月9日 - ジャンボ鶴田との初タッグ。 ファンクスの持つインターナショナル・タッグ王座に挑戦したが、引き分けて奪取ならず。 12月2日 - ジャック・ブリスコと対戦。 60分3本勝負、2-1でブリスコを下し、NWA世界ヘビー級王座を獲得。 日本人選手初。 2月11日 - での持つに挑戦。 これによりNWA、WWA、、の世界王座全てに挑戦したこととなる。 反則勝ちを収め試合には勝利するも、規定により王座獲得ならず。 10月31日 - レイスと対戦。 60分1本勝負、1-0でレイスを下し、NWA世界ヘビー級王座に再度就く。 9月4日 - レイスと対戦。 60分1本勝負、1-0でレイスを下し、NWA世界ヘビー級王座に三度就く。 1月18日 -「ジャイアント馬場3000試合連続出場突破記念試合」を開催し、バーン・ガニアのAWA世界ヘビー級王座とPWF王座のダブルタイトルマッチで対戦。 60分3本勝負、1-1の引き分けで両者王座防衛。 2月4日 - 初めてスタン・ハンセンとPWF王座をかけて闘う。 両者反則に終わるが健在ぶりを示した。 7月31日 -。 前年ハンセンに奪還されたPWF王座をスモールパッケージホールドの技能技でハンセンから奪還。 7月30日 - でハンセンと対戦。 60分1本勝負、0-1でハンセンに敗れPWFヘビー級王座から陥落。 これを最後にタイトルの第一線から撤退。 4月13日 - とのが実現。 東京ドームでのでを破る。 3月5日 - 「夢のカード」と題して、ハンセンとタッグを組み、・組と対戦。 10年ぶりにでのメインイベントに登場。 1月23日 - メインイベント。 同日60歳の誕生日を迎えたことを記念しての「ジャイアント馬場宣言・特別試合」。 三沢光晴、と組み、小橋健太、、組と対戦。 得意技のランニング・ネックブリーカー・ドロップで渕からフォールを奪い、現役レスラーとしての健在ぶりをアピールした。 試合後のインタビューにてが差し出すマイクを前に「子どもの頃は60歳といったらずいぶん年寄りだなとも思ったが、自分がなってみたら『何だまだやれるじゃないか』と思ってね」と答える。 12月5日 - 日本武道館でラッシャー木村、と組んで渕正信、、組と対戦。 生涯最後の試合となった。 獲得タイトル [ ]• 第6代 - 大木金太郎から奪取したが、1度も防衛戦を行わずに返上。 第7代・第9代・第10代・第12代・第14代・第16代・第23代・第25代・第27代・第29代・第31代・第33代インターナショナル・タッグ王座 - 12度獲得。 第11代・第13代・第17代 - 3度獲得。 世界タッグ王座(デトロイト版) - 1度獲得。 (パートナーはジャンボ鶴田) 歴代は不明(防衛0回)。 1度も防衛を行わずにタイトルを返上した。 - 7度優勝。 (1973年、1974年、1975年、1977年、1978年、1981年、1982年) 入場テーマ曲 [ ]• (作曲:) 馬場及び全日本プロレスの代名詞とも言える楽曲であり、プロレスそのものをイメージさせる楽曲としても各局のテレビ番組などで多く使われている。 中盤、全日本に入団したに譲り、王者の魂に変更した。 王者の魂(作曲:・TEmPA) 1982年に世界最強タッグの入場式テーマ曲として使われ、自身の入場曲として使い出したのが1984年の欠場明けから(当初はビッグマッチ限定)。 その数年後には中継が深夜に移動したため、の『炎のファイター』(イノキ・ボンバイエ)に比べるとプロレスファン以外の知名度は低い。 そのため、「ジャイアント馬場=日本テレビスポーツのテーマ」というイメージがその後も持たれている。 2014年よりなどで放送開始した「全日本プロレス 〜AJPワールド〜」のテーマ曲として再利用されている。 人物 [ ] このプロレスラーの人物像に関する文献やが必要です。 ためにご協力をお願いします。 ( 2008年3月) レスラーとしての評価 [ ] 試合運びはアメリカン・スタイルにのっとったもので、常に基本に忠実なものであった。 佐藤昭雄によると、猪木と異なりギブアップ技を持たない(嫌う)とされており、フィニッシュまでの流れがあって勝負がつくというのが馬場のプロレスであった。 余程のことがない限り奇を衒ったことはしない。 ただし不測の事態(対戦相手が掟破りの攻撃を仕掛けた場合など)においてはいわゆると言われる技術で対応する。 アメリカ武者修行時代に から関節技のノウハウを教わっていた。 は馬場について、試合の組み立て、運動能力、スタミナ、スピードなど全てを兼ね備えた万能のプロレスラーであり、「プロレスラーとしては最高」、「猪木さんと馬場さんでは差があったよ。 モノが違った」と語っており 、またシュート(真剣勝負)でも強かったと回想している。 一方は「十回やれば九回は私が勝つだろう」と語っている。 また、上田馬之助も「(若手時代に)オヤジ(力道山)の命令で、猪木さん、大木さんと馬場さんがガチンコの巴戦をやることになったら、馬場さんがまず脱落し、猪木さんと大木さんは決着がつかなかった」「(BI砲の時代には)シュートでは猪木さん以外は(馬場も含めて)私に勝てなくなっていた」と述懐している。 性格 [ ] 基本的におおらかな性格。 小さいころは非常に親孝行で、人との間に角を立てるのが本当に嫌だったという。 旧知の間柄の人達には面倒見が良かった反面、見知らぬ人には慎重で警戒心が強かった。 記者他との雑談においても、一人でも初顔の者がいると気付いた途端、一切話すのを中断したという。 そのおおらかさ故、馬場の試合では馬場に対する野次がいつの間にか敬語になる(「馬場さーん、やっつけちゃって下さーい! 」など)といった現象まで起こったという。 契約、信義に関して [ ] 契約には厳しく、として参戦していたが契約途中で離脱した際に、断固たる措置を取ったことが知られる。 しかし、が社から新団体旗揚げの話を持ち掛けられ全日本の契約終了後にへ移籍した際、当時、団体の移籍は非常識とされていたことで憤慨していたに対して、「なぁ、人は裏切るより裏切られた方がまだいいだろう」と諭した。 これは天龍と馬場の間に十分な話し合いが持たれた上での移籍ではあるが、その後を始め契約期間が終了していない全日本勢が何人もSWSへ流れていった際には「話が違う」と激怒した。 この際に契約違反をして離脱をした選手に対して全日本は、後に法的措置を取っている。 また一度辞めていった日本人選手に関しては二度と全日本のリングに上げる事はなかったが、その弟子はリングに上げている。 の弟子である・や、の弟子に当たるなどが1990年代後半に全日本に参戦した。 師匠の事で弟子が巻き添えになることはプロレス界ではよくある話であるが、馬場は師匠の事とは別だと割り切っていた。 長州の弟子にあたるは正式に全日本の所属レスラーになっている。 作法に関して [ ] 食事や作法、服装などに厳しく、後輩や弟子たちにも徹底的に叩き込んでいる。 1990年代、全日本の選手たちが決してシャツをズボンから出さなかったことは、馬場の教えが徹底されていたからであり、お付きだった和田京平や仲田龍らは「エリ付きのシャツでないといけない」という馬場の教えを守り、夏場でもTシャツではなくを着ていた。 選手のも長い間許されなかったと言う。 も嫌いで、持ってはいたが「あれは作業着だ」と言っていた。 稀にではあるが、後輩や弟子の言うことを聞き、厳しく躾けなかった例もある。 がシャツの裾を出しているのを注意したところ、一度裾をズボンに入れるが、すぐに「馬場さん、やっぱりこっちの方が良いです」と言ってまた裾を外へ出した。 全日本において絶対的存在であった馬場へ口答えした秋山を見て他の選手は慌てふためいたものの、「コイツは大物になる」と感じた馬場は「最近の若者はよく判らん」と言いながら笑って許した。 プロレスに関して [ ] 「(真剣勝負・)を超えたものがプロレス」という発言を残した。 他団体が格闘技路線を進めていた頃の全日本プロレスのキャッチコピー「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させていただきます」や「プロレスとは『プロレス』である」といった発言は、馬場本人のコメントではなく馬場夫妻と数十年に渡ってプライベート含めて親交があった元『』編集長のが考え出したものであるが、馬場自身もこのコピーを気に入っていた。 プロレスラーが技を一般人にかけることを非常に嫌っていた。 の番組にゲスト出演していたとき「パーソナリティのに何かプロレス技をかけて欲しい」というリスナーからのFAXがあった。 馬場は「素人さんにプロレスの技をかけることは、絶対してはいけないこと」と語っている。 ただし、かつて『』にゲスト出演した際、にをかけたことはある。 また、試合中エキサイトして我を忘れてしまうこともあったらしく、「場外乱闘で興奮状態になった馬場さんに技をかけられた」というプロレスファンの投稿が、雑誌に載ったこともある(投稿者は幸い馬場の大ファンであったため「痛かったけど、嬉しかった」と言っている)。 なお、に『』のCMにおいて、に対し技を繰り出すプロレスラーとして生前の馬場の映像が合成で使われた。 自らのプロレス観とかけ離れたレスラーとの対戦には消極的ではあったが、そのレスラーが人気者だった場合、プロモーターの立場として観客動員等、興行価値を優先し、積極的に起用し続けた(後述のミル・マスカラス、ビル・ロビンソン、長州力等)。 アントニオ猪木からシングル対戦の要求はたびたびあったが、馬場は最後まで応じなかった。 表向きの理由は、それぞれの団体が専属契約していたTV局(日本テレビ、テレビ朝日)同士のどちらが放映するのか話がまとまらないとのことであった。 嗜好 [ ] が好きな読書家で、年間200冊以上の本を読み、、のファンだった。 巨人で同期入団だった森祇晶や国松彰は、「物静かで、いつも文学全集のような本を抱えていた」と述懐している。 他にもなどを趣味に持つ。 「引退したら(当時を持っていた)で絵を描く生活がしたい」と語っていたが、それが現実になることはなかった。 『』の大ファンで、欠かさず見ていたという。 初代役のと初めて面会したときは、直立不動の姿勢となり、思わず頭を下げてしまったと回想している。 また、面識の無い(初代役)と初めて会ったときには「おう、弥七」と声をかけ(年齢は馬場が中谷の8歳年下であった)、(うっかり八兵衛役)と初めて会った際にも「八兵衛」と声をかけたと言う。 『水戸黄門』になどのが出るようになると「突飛なことはやらない方がいい」と苦言を呈していた。 東野時代のような典型的なものを好んだ。 一方でテレビ(バラエティ番組)への出演が増える前は『水戸黄門』の出演者以外の芸能人に関して知らなかった所もあった。 アイドルとして人気絶頂だったに初めて会ったとき「テレビは『水戸黄門』しか見ないから知らない」と言ったという話や、でに声をかけられた際には、高倉が誰かわからず「俳優? 水戸黄門には出てねえだろ」と付き人に答え軽くあしらった といったエピソードがある。 音楽では民謡を好み、を演奏することも出来た。 ハワイを非常に気に入っていて、オフはよくハワイの別荘で過ごしていた。 ハワイマット界にも関わりが深く、全日本プロレスのタイトル認定機関であるPWF初代会長のロード・ブレアースはハワイのプロモーターであった。 日本プロレス時代の人生設計では、「38歳で日本のプロレス界からは引退し、その後はハワイに引っ越して気楽な隠居暮らしに入る」というつもりだったという。 (建て替えを経て現在の名称は)を東京ヒルトン時代から定宿としていたことはよく知られており、馬場〜三沢時代の全日本プロレスの記者会見は殆どキャピトル東急で行われた。 また馬場は普段からキャピトル東急で食事を主にしていたほか、関東での大会終了後には必ずキャピトル東急に向かい、深夜まで開いているコーヒーラウンジ「オリガミ」で食事をしていた。 お付きの和田や仲田、番記者のらはキャピトル東急で馬場から食事作法を学んだという。 の増刊号にて、キャピトル東急ホテルの建替による一時閉店直前のオリガミにて、が「馬場さんの味を食す」という特集を組んだほど、ジャイアント馬場=キャピトル東急というイメージがプロレス界では定着している。 特に、この「オリガミ」に勤務する・は「馬場さんにおもてなしすることが登竜門だった」という。 1990年の骨折入院までは健啖家で、酒に強く(本人曰く『いくら飲んでも酔わないので酒は面白くない』)、甘党でもあったが(あずきの缶詰を常に携帯しており、食事の締めとして餅に付けて食べるのが好きだった)、この事がの遠因になった。 試合中に足を骨折してしまった後は足腰の鍛錬により専心するようになり、毎日の自宅から(のも使わなかった)にあった全日本本社までウォーキングするのが日課だった。 若手時代は汗っかきだったが、糖尿病を患って以降は汗をかかない体質になってしまい、以来好きでもあった。 葉巻きたばこを愛好していたが、テレビ番組の出演で親しくなったがで入院したため、の意味からを決意。 しかし結局願いは叶わずに逸見はこの世を去り、逸見の死去以降、馬場が1999年1月に死去するまで葉巻を口にすることは二度となかった。 甘い物、特にが好きだと話している。 「王道十六文」では子供のころに家で正月三ヶ日の朝だけはあんころ餅が食べ放題だったため、その時が待ち遠しかったと述懐している。 また、テレビ番組「」のコーナー「最後の晩餐」に出演した際も、から「明日地球が無くなるとしたら、人生最後に何が食べたいか? 」について聞かれ「俺が死んだら棺桶にを入れとけよと言っている」、「大福なら何でもいいが、豆餅(豆大福)がいいなぁ」と答えている。 愛車はアメリカ武者修行時代に苦楽を共にしたサンマルチノからプレゼントされたで、買い替えの際にもずっと同じタイプの「クリーム色のボディ、黒い革張りの屋根」という仕様のキャデラックを選び、亡くなるまで乗り継いだ。 最後に乗っていたものは、馬場の死後に譲られた。 愛唱歌は『』であったという。 少年時代から辛いことがあると、気分を紛らわせるためにこの歌を良く歌っていたことをテレビ番組に出演した際にも語っていたことがある。 金銭感覚 [ ] 負傷のためプロ野球選手を断念せざるをえなかったが、プロレスチャンピオンになって年収が3億円を超えたと話し、給料袋が縦に立ったという。 当時のプロ野球界の最高峰であったの「(や)が『年俸3千万円、4千万円』などといっていたのを見て、おかしくて笑いが出てしまった」という逸話を晩年に語っていた。 ただし、経営者として節税出来たことから、新聞で発表されるの馬場の順位は下位であった。 しかし、偶然節税になっただけであるらしく、税務署から表彰されたこともある。 本人のコメントによるとアメリカ時代には1試合で2万ドル(当時で約7百万)稼いでいた。 1本数万円(途中からは1本10ドルの産)の葉巻を愛用し、キャピトル東急ホテル内「オリガミ」で出される1個2,500円のを食べ、三沢に1個1万円のを絞って作ったメロンを振舞ったり、の新婚旅行の費用をポケットマネーで出すなど豪快なところもあった。 所属選手のギャラそのものは新日本プロレス所属の選手より高かったが 、馬場が選手にとの個人的な付き合い、選手が勝手にTV番組やCMに出演したり、雑誌のインタビューを受けることを禁止していたのと、またグッズのロイヤリティーは一切選手に還元されず全て元子夫人が社長をしていた ジャイアント・サービスの利益になるようにしていたため「実際の年収」は新日所属選手の方が多かった。 選手に対する契約に保険や負傷欠場時の給与補填などは正式な制度として行わなかったため(内臓疾患で長期欠場していたは『馬場さんがポケットマネーから生活費をくれていた』と証言している)、負傷欠場による収入保証制度は馬場の死後新社長となった三沢光晴新体制では導入する方向だったが、オーナーである元子が『馬場さんの時代にはなかった』と全て拒否したため、のちの三沢ら選手の大量離脱の要因となった。 これがいわゆる馬場アンチからはネット掲示板などで「ケチ」「守銭奴」と散々批判される一因となっていたが、のちに負傷欠場したからといって即座にギャラが支払われなくなるという訳でもなく、所属選手ならそのシリーズの試合給は全額保障、その後も一定期間は一定の割合が出た、ということが明らかになっている。 また、がに移籍した一つの理由として、試合で怪我をしたのに治療費を出してくれなかったことを挙げたが、それに対して馬場は「治療にかかった分の領収書を提出すれば、立て替えた分の治療費は出す」と反論している。 なお、その遺産は渋谷に8億7千万円と公示された。 死後、永源遙はのインタビューで「猪木さんは金を使うことが好きな人、馬場さんは金を使うことを忘れた人だった」と話している。 プロレスラーとの人間関係 [ ] 力道山からは特別可愛がられた。 これは馬場に「元巨人軍投手」という肩書きがあったことと、2mを超える身長に力道山が惚れ込んでおり「これはワシをも凌ぐスターになるかもしれん」と思ったからである。 アントニオ猪木はいわば叩き上げであり、また従順でなかった猪木を力道山はあまり好んでいなかったとされ、ちょっとしたミスで殴られたり蹴られたりが当たり前だった中、馬場は一度も殴られたことが無いというエピソードがある。 また、馬場は入門当初からを経験しておらず、すぐにアメリカ遠征に出され、給料も出ていたなど完全な特別扱いであった。 馬場自身が「私は力道山に一度も殴られたことが無い」と発言していたが、それは理不尽な暴力を受けたことは無いという意味で、シゴキ自体は過酷なものであった。 自伝によると力道山からの手ほどきを受けた際、を鍛えるためにを変形させたもので手を何度も思い切り叩かれたという。 叩かれている間力道山に「どうだ痛いか」と聞かれたが、「痛くないと言えば余計に力を加えるし、痛いと言えばそのうち痛くなくなると言って叩くのをやめないので、黙って耐えるしかなかった」と述懐している。 また野球上がりで腕が細かったため(当時のピッチャーは腕を痛めるといけないという理由でもしなかった)、巡業でを渡る際、で力道山の指示でいつも到着するまでを持たされていた。 馬場はへ行くたびにあのときのことを思い出すと語っていた。 力道山には弟子に酒のを強要する癖もあり、馬場も何度も大量に飲まされたという(馬場自身は酒嫌いだった)。 夏、での試合を終えた馬場は力道山らとの酒宴に付き合わされたが、行き違いから機嫌を損ねた力道山を若手だった馬場がなだめることとなり、力道山に「」ボトル一本を一気飲みさせられ、目の前に「火花が散った」という。 一息ついた馬場が水を飲もうとしたところ、に差し出されたのは「」だったという。 後に馬場自身は力道山のことを「人間として、何一つ良いところのない人でした」と語っており、特別扱いを受けながらも辟易していた心中を吐露している。 新日本を旗揚げしてからの猪木の挑発には「何度もはらわたが煮えくり返る思いがした」とに書いているが、猪木には基本的に「同じ釜の飯を食った男」という気持ちがあり、憎しみの感情はみられなかった(馬場が後期の猪木に一貫して持っていた感情は不信感だった)。 猪木も同様で、表向きの発言と実際に馬場に会うときの態度はまったくと言っていいほど違っていた。 なお、猪木とはまったく疎遠だったというわけでは無く、年に数回会っては話をしていたという。 猪木の引退試合の際、馬場はねぎらいの電報を送った。 しかしそれは結局読み上げられることはなかった。 新日本プロレス陣営の中で坂口征二については馬場も非常に信頼しており個人的に交流もあった。 特に1990年2月新日本のドーム大会では、馬場は坂口の依頼に応え団体の壁を超え全日本の選手を貸し出した。 また馬場が死去した際には坂口は真っ先に駆けつけた。 本当に馬場を憎んでいたのは上田馬之助で、日本プロレスを退団した馬場と、力道山の作り上げた日本プロレスに最後までこだわっていた上田の感情的なしこりは、日プロ崩壊後らと全日本に移籍する際、上田が仲介者のの言葉を本気にした(実際はだった)ことと、馬場が大木・上田ら移籍組を冷遇した(馬場曰く「全日本創立に奔走した仲間と、新日本とうちを両天秤に掛けたような元同僚を同格に扱うことは出来ない」という理由)ことで決定的になったという。 「猪木追放事件」も、一般には「猪木・馬場らによる計画の存在を上田が上層部に密告した」ことが原因とされているが、上田は近年になって「実は最初に密告したのは馬場である」と語っており(詳しくはの項を参照のこと)、このことも上田と馬場の関係悪化に大きく影響していたと思われる。 ただ、によると「上田が『猪木が会社乗っ取りと馬場の追い落としを企んでいる』と馬場に話して、それを馬場が上層部に話した」という。 も自書での猪木の弟、猪木啓介との対談で「いや、あれを上層部に密告したのは間違いなく上田」と語っており、元日本プロレスの経理部長である三澤正和も「実際の会議で猪木さんが『馬之助、テメェ、よくもばらしやがったな』と言っていた」と証言しており 真相は依然謎のままである。 プロレスのプロモーター(興行主)としても、NWAに加盟し第一副会長までのし上がったことで世界的に有名であった。 アメリカ武者修行時代にプロモーターの指示に絶対に逆らわなかったことや、馬場自身の人柄を買われたことで、全日本旗揚げ時にNWAのプロモーターだったや、当時ニューヨークの看板選手だったが協力を買って出た。 そのため、や新日本プロレスが日本プロレスにより外人レスラーの招聘を妨害されたのに対し、旗揚げ当初から招聘ルートを確立し、豪華なレスラー陣を招聘している。 そのような理由から、アメリカのプロモーターに対しても影響力が強く、がアメリカで武者修行していたさい、どのエリアに行っても現地のプロモーターが「こいつはババのところのボーイだから変なことをするな」とレスラーたちに警告していたので、嫌がらせやを仕掛けられたことは無かったと回想している。 選手との約束を必ず守り 、大物選手はで来日させ、遠征先でも高級を準備するなど丁重に扱ったことで、外国人レスラー間の評判が高かった。 また移動・宿泊は選手任せであるアメリカマット界とは正反対に、それらもすべて全日本・馬場が責任を持ったことも、外国人レスラーの評判を高めた。 アメリカ本土のプロモーターに対しても、全日本派遣をレスラーとの交渉道具に使うことができ、また選手を全日本に派遣することで参戦レスラーの顔ぶれのリフレッシュを行うことを容易にするというメリットをもたらした。 NWA副会長に登りつめるほど馬場がアメリカマット界における存在感を高めたのは、こういった要因も関係している。 外国人選手を丁重に扱っていたとはいえ、ズル休みなどは大物でも絶対できなかったという。 また力が衰えてきてもかつての大物レスラーはそれなりのポジションで来日させ続け、ブッチャーやドリーなどは、1990年代も回数は減ったものの来日し続けている。 NWA副会長であり、WWWF(後の)発足の頃すでに大スターだったことから、も、馬場に対しては頭が上がらなかった。 マクマホンがWWF代表として日本マット界を傘下に治めようとしていたとき、馬場はそれを制し、「」共催を実現させることでWWFの単独行動を抑えた。 後に馬場は「で世界王座に挑戦したときにほんの子供だったこんな小僧に翻弄されてたまるか」と述懐している。 付き人だったを特別可愛がり、一時は本気でを考えたこともある。 大仁田が馬場の付き人をしていた頃、興行に馬場の赤いパンツを持って行くのを忘れたことがあった。 困った大仁田は、同じ会場に赤いパンツを履く身長2mの外国人選手がいたため、この選手の控室に忍び込んでパンツを盗んだ。 馬場はそのパンツで試合に勝ったものの何かおかしいと気づき、「このパンツ俺の? 」と大仁田に聞いた。 大仁田は「外国人選手から借りてきました」とウソをついたが、馬場はこの嘘を即座に見破り「馬鹿野郎、貸すわけないだろ! 」と怒鳴って張り手タイプのを食らわせた。 そして洗濯して返すようにと命じ、3日間口をきかなかったという。 その後、大仁田は今度は馬場のスーツのズボンを忘れたが、素直に謝ったところ、馬場は何も言わず巡業中の約1か月間、スーツの上着に赤ジャージのズボン姿で通した。 大仁田はこの一件を通じ「馬場さんから人間として一番大切なことを学んだ」と語っている。 11月、のプロレス興行でブックメーカーを務めていたから選手派遣要請を受け、馬場はそれに応えて全日本から所属選手のを派遣することにした。 結婚したばかりのハル薗田にポケットマネーを提供して、試合後に新妻と新婚旅行できる様にと取り計らった。 ところが、パリ経由で南アフリカに向かう予定の筈が、南アフリカのプロモーターの勘違いで台北経由になり、その台北から南アフリカに向かう飛行機がインド洋上でを起こし、薗田夫妻は事故死することとなった。 馬場は生涯、薗田の派遣と新婚旅行を奨めたことを悔やんでいたという。 リング上の追悼イベントで弔辞を読み、号泣した。 世界中のプロレス界を股にかけた大巨人・アンドレ・ザ・ジャイアントが最後に選んだリングは、天龍一派の大量離脱で黄昏時を迎えていた馬場の全日本だった。 二人がコンビを組んでいた頃「馬場とアンドレが天の川で流しを食べていた」などという伝説が流れたこともある。 実際二人は大変仲がよく、話し相手に困らないようにと、アンドレの若手時代からの親友であるを話し相手として同じバスに乗車させ、アンドレ参戦時の外国人用移動バスの冷蔵庫には、アンドレ好みのが常に置かれていたという。 お笑いタレントとの関係 [ ] お笑いタレント [ ] 彼の体の大きさはよくお笑いタレントのネタにされた。 には「巨人時代、ボールを投げようとしたらの森の頭を叩いてしまった」、「投げた後、指がバックネットにひっかかりそのままバックネットを引きずり倒した」、「投げた瞬間にキャッチャーをまたいでしまうため、野球をやめた」、「に乗ろうとしたら、左のドアから右のドアに出てしまい、乗れなかった」、「車のから頭を出して運転していた」、「飛行機に乗るときは、両手を翼の中に入れて、腹這いになる」、「ゴルフもショートコースはパターしか使わない。 カップインしたボールを取り出そうとしたら、も一緒に持ち上がった」、「一緒に飛行機のに乗ったとき、前の席に座っていた馬場さんがシートを180度倒したらオレの腹の部分に頭がのった」など。 これらのネタは、学生時代に「」の熱心なリスナーであり投稿者でもあった、消しゴム版画家でエッセイストでもあったが考えたとも言われる。 本人も著書の中で、ジャイアント馬場の大きさについてのネタを考え出すといくらでも浮かぶと語っている。 もごもごしたしゃべり方や、こもった低音の声質がものまねのネタになりやすく、当初は、などにされることに対し不快感を示していたが、徐々にそういったおふざけを容認するようになり、そのキャラクターや風貌から、多くのやに起用されることとなる。 また、全日本プロレスでの自らを主役とした、ギャグタッチのをリリースされるまでに至った。 口癖の「アポ」「ポー」もかなりの頻度でネタにされた。 早くから馬場をものまねのレパートリーにしていたには、初対面の際「ぼくはアッポーなんて言ってないよ」と文句を言ったが、「指で汗をぬぐい大きく息をつく動作なんです」と実演して見せたところ、関根に本人公認のお墨付きを与えたというエピソードもある。 また、「」に出演したとき、突然関根にチョップを打ち込むと、関根は機転を利かせて馬場のものまねで膝をついた。 歌手・女優 [ ] のCMでと共演したが、CM撮影時に一口かじったアイスを、スタッフが「処分しますので」と引き取ろうとしたが、馬場は「勿体ないよ」と言って最後まで食べたというエピソードがあり、酒井は「身長だけでなく、心も大きい人でした」と語っている。 女優のは同郷で上京前からの友人。 馬場にとって水野はマドンナで、上京後互いに下積み時代だった頃も馬場は水野の引っ越しを手伝ったりした。 シンガーソングライターのとも親交が深く、自ら出していた月刊誌に馬場との対談を発表したこともある。 松山は馬場の死去後、1999年8月に「Champ never die」という曲を発表、馬場に捧げている。 アナウンサー、ラジオパーソナリティー [ ] クイズ番組でも馬場の体の大きさに関するネタが使用されたことがある。 酒井法子が当時使っていた「のりピー語」では、「馬場ピー」は「大きい」を意味していた。 1988年に放送された第12回の第4チェックポイント・アラスカ鉄道 で、司会者のが「馬場ピー」の意味に関する問題を出題、解答者が「汚い」と珍解答をしてしまうという珍事が発生した。 福留は「馬場さん怒るよ」と笑い、この語は当該解答者のになった。 が三遊亭楽太郎(後の の弟子として落語家の修行していた時代、プロレス業界と交流が深い楽太郎と馬場が話をしていたとき、同行していた伊集院の身体と足の大きさを見て、馬場は行きつけの靴屋にオーダーメイドで靴を作らせるよう注文をして伊集院にプレゼントしたことがある。 馬場も身体の大きさからなかなか自分のサイズにあった靴を見つけられなかった経験があるが故に伊集院に同情したためであるという。 しかしその靴屋はハワイにあり、当時楽太郎の弟子でお金が無かった伊集院には行けず、その靴は楽太郎がハワイ旅行に出かけた折に受け取ってもらった。 馬場は死去する約2か月前「」へ2週にわたり出演したが、これが一般視聴者へプロレスについての最後のメッセージの場となった。 馬場は受けの説明等を行い、このとき初めてテレビで歌も歌った。 また弟子のハル薗田の飛行機事故死がきっかけで飛行機が怖いとコメントしていた。 またへはのやり方を教えた。 黒柳はこれがきっかけで今でも毎日スクワットをしており、黒柳は「スクワットは馬場さんの遺言」と語っている。 SHOW by ショーバイ!! でのキャラクター [ ] 馬場のキャラクター・人柄はやプロレス中継以外のテレビ番組を通じて、幅広い人気を集めた。 中でも準レギュラー出演していた日本テレビ系クイズ番組『』では、様々な珍解答で視聴者の笑いを誘った。 早押し問題ではボタンを押さないことで知られ、「何を作っているのでしょうか? クイズ」で、終了5秒前にボタンを押した 実際にはが押したもの が、正解の「」がほぼ完成の形で画面に映っているにもかかわらず堂々と「 」と答え、司会者のを始めとする出演者全員を悶絶させたこともある。 逸見はこの馬場の発言で笑い転げ、しばらく起き上がれなかったほどであった。 しかし、一方で自身のなじみのある問題ではVTRが始まって数秒のうちにボタンを押し正解する等冴えた一面を披露した(正解は馬場が大好きな葉巻)。 特番では代表者になるもののボタンを押さず、業を煮やしてがボタンを押したこともあった。 さらに、そのときの正解は「トゥーシューズ」だったために高田がを真似て正解を伝えたが、本人は「オッパイにあてるやつ」と答え、周りを悶絶させたこともあった。 早押しボタンを押さないことはのにもされるほどであった。 ごくまれに逸見・福澤などに「馬場さん、押す気ありますか? 」と聞かれることがある。 逸見の場合はさらに「わかったら押すんですよね? 」と念押しする。 それに対して馬場は「そうですよ! 」と返す。 早押しボタンのすぐそばにを置いていたため、隣に座っていたに「馬場さん、こんなところにコーヒーを置いたら危ないんじゃないですか? 」と突っ込まれていた。 司会のに「押す意志無いじゃないですか」と突っ込まれた。 放送143回目のモグラたたき早押しクイズで初めて早押しボタンを押した際にはスタジオ内が大騒ぎとなり、馬場自身も照れてしまいセットの裏に隠れてしまった程だった(そのとき押していたのは実は早押しボタンではなくミリオンスロットのボタン。 その回のEDではその場面が使われることになった)。 同番組の特番では、パネラー席の早押しボタンが付くかのテストが行われたが、馬場は思いっ切りデスクを叩き、パネラー席を破壊してしまったことがある。 は、「(演出として)スタッフと相談して、馬場さんに内緒でデスクボードに細工をして落ちやすくしていたが、馬場さんはそれを察していて、知らんふりしてボードを叩き落してくれた」と語っている。 番組初期の頃は右から三番目の解答者席に座っていたこともあったが、基本的には一番左端の席が定着しており番組内では「馬場さんの席」の通称まで付いた。 番組中期以降はと交互に準レギュラーとして左端の席で解答した。 しかし、クイズ自体の解答率は悪くなく何度も売り上げNo. 1を取っており、回数も(56回)、(37回)、(23回)に次いで4位(17回)である。 1回目のトップ賞を取ったのも馬場であった。 1993年12月15日放送時は、逸見の代理司会としてが出演していたが、紳助の提案で1・2問目のみ馬場が代理司会を務め、紳助は馬場の代わりに解答者席に座った。 代理司会では、問題の答えを知らなかったり、渡辺に貰った答えが書いてあるカードを自分の代理で解答者席に座っている紳助に見せようとするなど、茶目っ気を見せた。 山城は逸見の追悼スペシャルにて、逸見がの闘病生活に入ることを告白してから、逸見の早期回復を祈って願を懸けるために、馬場は大好きな葉巻を断ったも紹介し、馬場の人柄を讃えた。 逸見が亡くなってから、自らのトレードマークだった葉巻を口にすることは生涯無かった。 からは番組内で「ジャイヤント」と呼ばれていた。 最終回スペシャルも自身の試合が終わってから、その足でスタジオへ駆け付け、馬場の名場面特集も組まれた。 身体について [ ] ジャイアント馬場を象徴する「16文」というワードであるが、実際の馬場の足のサイズは16(約38. 4cm)ではなく、およそ34cmである。 これは、日本に合う靴がほとんどなかったため、アメリカ遠征の際入手した靴にアメリカ規格の「16」(約34cm)とあるのを16文と誤認されたことに由来する。 1964年7月にNETテレビが「16文の青春」というドキュメンタリー番組を放送したことから定着した。 一部では「16文ではなく16インチ(約40. 6cm)」という更に誤った説もあった。 履いていた靴下は膝下54センチまで伸びるハイソックスの特注で、台東区の靴下博物館に保存されている馬場の靴下を作るため特別に作られた足型は33. 8cm(14. 08文)だった。 馬場は、から頃の一時期、髪を伸ばしていたこともある。 この時「をかけている」と言われたが、実際は癖毛なのでそう見えるだけだったという。 また戦での頭突きの衝撃を和らげるために髪を伸ばしていたことがあった。 死後、馬場の身体のサイズに見合うがなく、葬儀には特注サイズの棺を発注することも検討されたが、時間的な問題から間に合わず、最終的に遺体は布で包んだだけの状態のままへ運ばれ、に付された。 家族 [ ] 実家は八百屋であり、プロ野球引退時には実家を継げと言われていたが拒否した。 父・一雄は1968年11月に、母・ミツは1971年7月に死去。 兄弟は兄1人と姉2人だが、兄はの激戦地で戦死した。 ジャイアンツ入団初年の明石キャンプで知り合った後援者の娘・元子と知り合い、文通などを繰り返した後、1971年9月にで結婚式を挙げる。 初めて会ったとき、馬場の足に入る特大のスリッパを用意していたという話が残っている。 長らく結婚したことは公表されず、記者会見を行ったのは1982年7月、翌1983年1月に披露宴が行われた。 子供はいない。 馬場は(産生下垂体腺腫)であるため、それが遺伝することを恐れて、敢えて子供を儲けなかったともいわれているが、実際のところ、巨人症が遺伝することはほとんどない。 姪の幸子は全日本プロレスで取締役を務め、もうひとりの姪・トシ子は馬場の死後に全日本を離脱した大半の選手・社員により旗揚げされたに経理部長として2011年に入社している。 プロレスマスコミとの関係 [ ] 死後直後にで週刊プロレスのバッシングキャンペーンを依頼していたことが暴露されていたが、2010年6月に元週刊プロレス編集長のが、1990年代初頭に馬場から多額のの見返りに週刊プロレスの編集部や誌面、更には読者全体を巻き込む形でのSWSバッシングキャンペーンを行う様に依頼を受けたことをで追認している。 その後山本は実際に天龍源一郎を始めとするレスラーを引き抜いたSWSを「金権プロレス」とレッテルを貼った上で、文字通り誌面を挙げた一大バッシングを行った。 旗揚げ時からネガティブな印象を持たれたSWSは、天龍派と反天龍派の派閥争いなどの内部抗争、の八百長試合発言(いわゆる 北尾事件、詳しくは北尾の項を参照)といったスキャンダルも重なり、馬場の狙い通り2年後にSWSは崩壊した。 山本はこのバッシングキャンペーン以外にも、当時の誌面作りの方向性で全日本プロレスを優遇する見返りに、全日本プロレス興行のビッグマッチにおけるやを考案する権利を馬場から与えられていたことも暴露本で告白している。 出演 [ ] 映画 [ ]• (1963年、)- 大原庄平• (1970年、東映) - G・馬場• (1970年、東宝) -ピッチャー• (1988年、松竹) -タレント テレビドラマ [ ]• 第43話(1982年8月16日、)• 関西テレビ開局30周年記念番組「シェイクハンド」(1988年11月21日、) バラエティー、その他 [ ]• 「最後の晩餐」()• () ラジオ [ ]• のスポーツコンタクト()ゲスト出演• ()ゲスト出演 CM [ ]• 」のフレーズが話題となる。 (、1980年代 - 1990年代)• (江崎グリコ)• ビアシャトル()• かゆみ止め()• 週刊就職情報(、1984年)• ガスファンヒーター(1982年、と共演)• 「馬場も丸どり」のフレーズが話題となる。 アップルワールド 企業広告• AD軟膏(、1992年 - 1993年)• 日清からあげ粉(、1993年)• ツーフィンガー携帯電話(、1994年)• ららぽーと スキードーム ザウス(、1996年)• 日清ごんぶと(、1996年)• JA貯金年金自動受取り(、1997年 - 1999年)• (1997年頃、と共演)• と「対戦」。 芳香剤ファミレド ・1988年 書籍 [ ] 著書・関連著書 [ ]• 『プロレス入門』 、1971年• 『プロレス大全科』 、1980年• 『たまにはオレもエンターテイナー』 、1983年• 『ジャイアント馬場の16文が行く』 、1983年• 『個性豊かなリングガイたち』 、1987年、• 『王道十六文』 、1987年• 『16文の熱闘人生』 出版局、1994年、• 『馬場伝説』 、1996年• 『オレの人生・プロレス・旅』 ジャイアントサービス、1998年• 『16文が行く』 ダイナミックセラーズ出版、1999年、• 『王道十六文 完全版』 ジャイアントサービス、2000年• 『ねぇねぇ馬場さん』馬場元子 、2000年• 『ジャイアント馬場 - 王道十六文』 、2002年、 参考文献 [ ]• 『人生は3つ数えてちょうどいい』和田京平• 『NOAHを創った男-三沢光晴の参謀-』仲田龍・本多誠共著• 『馬場伝説』全日本プロレス編 、1996年 馬場に関する文献 [ ]• 「ジャイアント馬場と日本人」『』第661号、、1999年5月• 小林信也『人間ジャイアント馬場 - リーダーの条件』インターワーク出版、、• 『NHK知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 ジャイアント馬場巨人伝説』、2006年8月• 『巨人軍の巨人 馬場正平』、2015年 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 読売ジャイアンツ時代の発表は203cm。 全盛期は145kg。 の『2』では、怪獣やヒーローの能力を比較して最強を決めるための統一基準として、「行動形態が怪獣やヒーローに近い」ことを理由にジャイアント馬場を採用、怪獣やヒーローの能力を表す単位として「ジャバ(ジャイアント馬場の略)」という新単位を考案している。 この他にも、柳田は新刊本を出すごとに1冊に1度は必ずと言っていいほど、体の大きな人間の代表として馬場を引き合いに出しており(ちなみに足の速い人間の代表は)、自らもこのワンパターンをどうにかできないものかと自嘲気味に語っている。 晩年に出版した「馬場伝説」でも新潟県ではじめてのプロ野球選手という記述があるが、異説もあり、「文芸春秋」2012年3月号の「プロ野球 伝説の検証10」によると、新潟県第1号のプロ野球選手は高田市(のちの)出身の()とされ、巨人にも、など新潟県出身の先輩がいるため、馬場の言う「新潟県第1号のプロ野球選手」は本人の記憶違いとしている。 放送問題当時はで、をTBSテレビからネット受けしたことがあった。 一方、当時のNETテレビ系列局はだったため、NETテレビでの馬場の出場試合は同局で放送された。 米マット界で「関節技の鬼」と同時代のレスラーから恐れられていた選手。 タイガー・ジェット・シンもアトキンスから関節技のノウハウを教わっている。 「」出演の際、MCのにジャイアントコーンのCMソングを歌って欲しいとせがまれ、仕方なく鼻歌程度には歌ったことは有った。 出典 [ ]• 『馬場伝説』 筑摩書房、1996年発行• 神戸新聞NEXT. 神戸新聞社. 2004年9月16日. 2018年4月23日閲覧。 現代ビジネス 2011年8月17日. 2019年12月26日閲覧。 葬とれんど• Wrestling-Titles. com. 2015年4月26日閲覧。 産経ニュース. 産業経済新聞社. 2016年9月5日. 2016年9月6日閲覧。 東スポWeb. 東京スポーツ新聞社. 2016年10月15日. 2017年3月23日閲覧。 www. tokyo-sports. 2018年6月3日閲覧。 - 朝日新聞デジタル 2018年5月19日• ジャイアント馬場記念館• 『G SPIRITS Vol. 42』(辰巳出版・)p. 9、辰巳出版、2008年、13ページ• 『人間風車ビル・ロビンソン自伝 高円寺のレスリング・マスター』エンターブレイン• 『金狼の遺言』• 読売新聞 1999年2月2日• - IZA! ・2014年12月13日• 放送・再放映の「俺たちは忘れない…10年目の再会 ジャイアント馬場よみがえる16文キック」での取材より。 「」 2014年4月11日. 2014年4月23日閲覧。 2015年6月25日. 2015年7月10日閲覧。 2015年6月26日. 2015年7月10日閲覧。 1960年代通信• 1678号 「G・馬場『ケチ説』を覆す全日本系レスラーの『真実のギャラ』一覧」 (2009年)• 「」第76巻、、1985年。 『プロレスへの遺言状』ユセフ・トルコ著()• 『G SPIRITS Vol. 38』(2015年 辰巳出版 p89)• 『G SPIRITS Vol. 38』 p94• 「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!! 」最終回より。 『金権編集長 ザンゲ録』(宝島社)• Sports Watch 2010年6月18日 関連項目 [ ]• - 日本で活躍した台湾出身のプロレスラー、映画俳優。 ジャイアント馬場と似た風貌、2メートルを超す長身からよく混同された。 出演作は『』など。 外部リンク [ ]• - NPB. jp 日本野球機構• ウィキメディア・コモンズには、 に関するカテゴリがあります。

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