若松 日刊。 若松孝之

若松孝之

若松 日刊

初めて全国のレベルを思い知ることになった。 駒大を経てから8位で指名された。 駒大で共にクリーンアップを張った大矢明彦(元監督)は7位。 一緒にヤクルトへ入団した。 私が2年目を迎えると、同じ年の若松勉(元ヤクルト監督)が電電北海道(後にNTT北海道)からヤクルトに入団。 同じ外野手で同じ左打者のライバル出現に私は燃えた。 この年、私は102試合に出場して打率・307。 以降、オープン戦で首位打者になったこともあったが、足首の骨折などもあってレギュラーに定着することはできなかった。 後に「小さな大打者」といわれる若松(85年に2000安打)にも、打撃面では負けない自信を持っていた。 今思うと、私は「なぜ打てないのか」「どうして打てるようになったのか」と問い続ける感性が弱かった。 後にコーチになって気付いたことだが、いい打者ほど「なぜ」「どうして」という感性が強い。 若松は打てない時だけでなく、打った時もこれを追求していた。 同じ練習メニューをこなしても、感性が違うと結果も変わってくる。 これこそが、一流と二流の分かれ道なのである。

次の

若松孝之

若松 日刊

経歴 [ ] プロ入り前 [ ] でのプレー経験がある実父の影響 で、小学校4年時から野球を始める。 筑邦西中学校時代は久留米ペトリオッズに所属。 3年時にへ出場した。 への進学後には、2年時の秋からエースの座を確保したが、春夏ともでの全国大会へ出場できなかった。 3年時にも、夏の2回戦で敗れた。 しかし、の球団で唯一、がの指名に必要な調査書を送付。 7巡目で、中日から実際に指名された。 この年の会議でとしてNPB全12球団から指名された選手では最後の指名であったが、若松本人は「(続いて開かれたで)として指名されるだけでも良い」と思っていたとのことで、中日から支配下登録選手として指名された瞬間に涙を流したという。 結局、契約金1,800万円、年俸540万円(金額は推定)という条件で中日に入団した。 担当スカウトはで、背番号は 61。 中日時代 [ ] には、公式戦20試合に登板。 通算投球イニングは43回で、3勝2敗、防御率3. 98という成績を残したが、一軍公式戦への登板機会はなかった。 しかし、シーズン終了後の秋季キャンプ中に紅白戦で好投したことから、当時の一軍監督・から監督賞を贈られた。 には、公式戦開幕直後の4月3日に、の対戦で救援投手として一軍公式戦にデビュー。 同月10日の対戦()で初めて先発するなど、一軍公式戦全体では、2度の先発を含む7試合に登板した。 シーズン終了後に参加したでは、10月25日にの対戦に先発すると、被安打5、奪三振10という内容で完封勝利をマーク。 リーグ戦全体でも、通算5試合の登板で、投球イニング25回をすべて自責点0で凌いだ。 さらに、リーグ終了後の秋季キャンプでは、強化指定選手に選ばれた。 には、4月18日の対戦()に、先発投手として登板。 一軍公式戦でのシーズン初登板で、白星は付かなかったが、6回を自責点1で凌いだ。 後に救援での登板や二軍調整を経験したが、6月2日の対戦(ナゴヤドーム)でシーズン5試合目の先発登板を果たすと、6回無失点という内容で一軍公式戦での初勝利を挙げた()。 8月には、自身初の完封勝利を含む4勝を挙げたことから、の(投手)に選出。 シーズン通算では、同リーグの最終(143イニング)にわずか3イニング足りなかったものの、一軍公式戦でチームメートのに続く10勝 を挙げた。 ほぼ1年間一軍の先発ローテーションを守りながら防御率2. 12という好成績を残したことも背景に、シーズン終了後の契約交渉では、推定年俸3,600万円で契約を更改。 には、一軍公式戦の開幕から先発ローテーションに入ったが、8月上旬から9月中旬まで二軍で調整。 9月末に中継ぎ要員として一軍に復帰すると、チームトップに並ぶ7勝を記録した。 もっとも、防御率は4. 06で、8敗を喫している。 にも、一軍公式戦の開幕から、先発陣の一角を任された。 しかし、シーズン初登板から4試合で3敗を喫したため、4月下旬に出場選手登録を抹消。 抹消中には一時、実戦を離れて、春季キャンプばりの走り込みに専念していた。 8月上旬に一軍へ復帰すると、3試合の先発登板で2連勝を記録したが、シーズン通算では7試合の登板で1勝4敗という成績にとどまった。 には、右肩を痛めた影響で一軍公式戦での登板がなく、ウエスタン・リーグ公式戦でも5試合の登板で1勝1敗、防御率6. 04と振るわなかった。 シーズン最終盤の10月1日に球団からを受けた が、他球団での現役続行を希望していたことから、11月13日にはへ参加。 形式で対戦した3人の打者をすべて凡退させた。 12月2日付で、NPBからとして公示。 BCリーグ・栃木時代 [ ] 2018年12月6日に、のへ入団することが発表された。 は先発で13勝をあげ、チームの初優勝に大きく貢献。 リーグの後期ならびにシーズンMVPに選出された。 シーズン終了後の11月12日に2年連続で12球団合同トライアウトへ参加。 野球外では、2019年6月16日に1歳年下の一般女性と入籍したことを発表した。 2019年12月25日、栃木ゴールデンブレーブスは若松と2020年の契約に合意したと発表した。 若松と同じ年齢の高卒投手に、とがいる。 2013年に高校から直接NPBの球団へ入った投手のうち、若松が中日を退団する2018年までにNPBの一軍公式戦でシーズン2桁勝利を記録したのは、若松、大谷、藤浪の3人だけである。 人物 [ ] 本人曰く、実家は「田んぼに囲まれていました」とのことで、最寄りのまでは約2kmあるという。 自宅から高校まで10kmの距離を毎日、自転車で通学したため自然と下半身が鍛えられたと語っている。 高校時代には、土木科に所属。 の資格を所得しているため、3tまでの重機を操ることが出来る。 左頬にアザがあるが、本人曰く「さんと同じ」と気に入っている。 中日へ入団した時の担当スカウトだった渡辺を、「高校球界で無名だった頃から自分を見てくれていた恩人」と慕っている。 若松と同じ九州(大分県)の出身で、現役時代に若松と同じ右投手だった渡辺は、高校時代から若松に興味を示していた数少ないNPB関係者の1人だった。 しかし、入団2年目で迎えた春季キャンプの初日(2014年2月1日)に、のため、渡辺は57歳で永眠した。 若松が翌2015年に一軍公式戦で初勝利を挙げた際には、試合後のヒーローインタビューで、目を潤ませながら渡辺への感謝の気持ちを述べた。 ちなみに、この試合のウイニングボールは、渡辺の遺影の前に飾られたという。 中日から2018年に戦力外通告を受けた直後には、中日時代の思い出として、2015年に一軍公式戦で2桁勝利を挙げたことよりも「(この年のシーズン終盤に相次いで開かれた公式戦における)谷繁、、 の引退試合に登板して良い投球ができたこと」を挙げていた。 その一方で、戦力外通告の直後から栃木への入団が決まるまでは、『』()のスタッフが若松と実父に密着取材。 同局では2019年1月19日に、その模様が放送された。 詳細情報 [ ] 年度別投手成績 [ ] 7 2 0 0 0 0 1 0 0. 000 72 16. 1 19 0 6 0 0 5 1 0 13 9 4. 96 1. 53 23 20 2 1 0 10 4 0 0. 714 575 140. 0 111 10 50 0 2 113 3 0 35 33 2. 12 1. 15 19 18 3 0 1 7 8 0 1. 467 497 115. 1 127 10 37 0 0 85 3 0 55 52 4. 06 1. 42 7 7 0 0 0 1 4 0 0. 200 162 35. 2 49 4 11 0 1 16 1 0 25 22 5. 55 1. 68 :4年 56 47 5 1 1 18 17 0 1. 514 1306 307. 1 306 24 104 0 3 219 8 0 128 116 3. 40 1. 2019年度シーズン終了時 年度別守備成績 [ ] 年 度 球 団 試 合 2014 中日 7 1 2 0 0 1. 000 2015 23 7 28 2 6. 946 2016 19 12 12 0 2 1. 000 2017 7 2 9 0 2 1. 000 通算 56 22 51 2 10. 973• 2019年度シーズン終了時 表彰 [ ]• :1回(投手部門:2015年8月) 記録 [ ] 投手記録• 初登板:2014年4月3日、対3回戦()、5回裏に2番手で救援登板、1回無失点• 初奪三振:同上、5回裏にから見逃し三振• 初勝利・初先発勝利:2015年6月2日、対1回戦(ナゴヤドーム)、6回無失点8奪三振• 初完投・初完封勝利:2015年8月2日、対17回戦()、5安打6奪三振 打撃記録• 初安打:2015年8月8日、対東京ヤクルトスワローズ18回戦(ナゴヤドーム)、2回裏にから投手内野安打• 初打点:2015年10月7日、対25回戦()、8回表にから右前適時打 独立リーグでの投手成績 [ ] 21 3 13 5 0. 722 526 128. 0 104 6 50 3 93 4 0 43 36 2. 53 1. 20 :1年 21 3 13 5 0. 722 526 128. 0 104 6 50 3 93 4 0 43 36 2. 53 1. 2019年度シーズン終了時 背番号 [ ]• 61 (2013年 - ) テーマ曲 [ ]• 「Run this way feat. 」BANTY FOOT(2015年 - ) 脚注 [ ]• スポーツニッポン 2019年1月19日. 2013年3月14日閲覧。 スポニチ Sponichi Annex 2013年1月13日. 2013年3月14日閲覧。 日刊スポーツ 2013年11月13日. 2013年11月14日閲覧。 中日ドラゴンズ 2012年10月25日. 2013年3月14日閲覧。 BASEBALL KING 2015年9月8日. 2019年1月21日閲覧。 その日の広島のと打者として対戦したことで彼の投球から多くを学んだという。 「あの試合で打席にも立って黒田さんの球を感じたことはいろいろ財産になった。 真っすぐでも動いていたし、全球種が低めに集まっていた。 これが僕に求められている投球だと思った。 - (2015年10月8日11時51分 紙面から)• スポーツニッポン 2015年11月21日. 2019年1月21日閲覧。 デイリースポーツ 2015年11月22日. 2019年1月21日閲覧。 J SPORTS 2017年8月15日. 2019年1月21日閲覧。 中日ドラゴンズ. 2018年10月1日閲覧。 日刊スポーツ. 2018年11月13日. 2019年1月21日閲覧。 NPB日本野球機構. 2019年1月8日. 2019年1月19日閲覧。 - 栃木ゴールデンブレーブスオフィシャルサイト(2018年12月6日)• - ベースボール・チャレンジ・リーグ(2019年10月25日)• - ベースボール・チャレンジ・リーグ(2019年10月31日)• Full-Count. 2019年11月12日. 2019-11-112閲覧。 下野新聞 SOON. 下野新聞 2019年12月25日. 2019年12月30日閲覧。 中日スポーツ 2012年11月3日. 2013年3月14日閲覧。 山本の引退試合は、引退翌年(2016年3月5日)にナゴヤドームで催されたとので催されたが、一軍公式戦における引退試合(最終登板試合)は2015年10月8日の対広島戦(マツダ)である。 7回裏から登板した若松は、試合終了までの3イニングを無安打に抑えたことによって、自身初のシーズン2桁勝利を挙げた()。 スポーツニッポン. 2018年10月1日. 2019年1月21日閲覧。 関連項目 [ ]• - 担当スカウト 外部リンク [ ]• - NPB. jp 日本野球機構• wkmtshnt -.

次の

ボートレース若松 公式サイト

若松 日刊

3年生が抜けた夏の静岡大会後、鍛えた体を生かす時がきた。 1年生が打撃練習をする機会が与えられたのだ。 私はフリー打撃でサク越えを連発。 1年秋から4番に座ることになった。 ある試合でのこと。 4番の私は、無死満塁でノースリーから走者一掃の二塁打を打った。 意気揚々とベンチに戻ってくると、監督に「もう少し考えろ」と張り倒された。 高校でノースリーから打つなど言語道断の時代だった。 同点で迎えた九回裏、1死満塁の好機で4番の私に打順が回ってきた。 これまでの高校生活で、私はバントをしたことがなかった。 それでもサインは「スクイズ」。 私は震える手でバントを転がし、サヨナラ勝ちで初出場を決めた。

次の