アウシュヴィッツ 人体 実験。 「ナチス人体実験」生存者の双子が語る“死の天使”メンゲレの非道

ヨーゼフ・メンゲレ

アウシュヴィッツ 人体 実験

やがて、アウシュビッツ強制収容所の主任医官になった。 メンゲレは、収容所の子どもたちに「おじさん」と呼ばれ、慕われていた。 彼は子どもたちに優しく笑いかけ、お菓子をあげたり、バイオリンを演奏して聞かせてあげたりしていた。 子どもたちを車に乗せて、楽しげに収容所内をドライブすることもあったという。 だが、それから何日もたたないうちに、子どもたちは解剖台の上に乗せられ、メンゲレの手で身体を切り開かれるのだった。 「私のモルモット……」彼は、収容所の子どもたちをそう呼んだ。 メンゲレは子どもたちに容赦なく人体実験を行った。 さまざまな薬液を注射したり、体液を搾り出したりするので、苦痛と恐怖のあまり子どもが泣き叫ぶと「実験結果が狂ってしまうじゃないか!」と彼は鬼のような形相で怒鳴りつけた。 麻酔なしでの手術、生きたままの人体解剖、性器の切除や性転換手術、有害な病原菌や毒物の注入……。 メンゲレは、ありとあらゆる残忍な手段で人体実験を行った。 ある少年は麻酔なしで体を切り裂かれ、腎臓を取り出された。 メンゲレの手の中で脈動する自身の腎臓を見た彼は、激痛と恐怖のあまり何度も「殺してくれ!」と叫んでいたという……。 また、アウシュビッツ強制収容所では、囚人たちを乗せた列車がプラットフォームに到着すると、医師たちはガス室送りの者と、労働や人体実験に使えそうな者とをその場で選別していた。 たいがいの医師はこの任務を嫌がったが、メンゲレは選別する時、アリアを口ずさみながら指揮をとるように「右、左~右、左~」と楽しそうに選別していた。 そして、「双子、双子はいないか!」と大声で探し回ったのだった。 特に、メンゲレは双子に対して異常な興味を示した。 メンゲレは、アーリア人(ドイツ人)を効率的に増やすため、「双子の量産」をもくろんだのだった。 当初は双子の身体の外観を比較するだけだったが、彼の実験は徐々にエスカレート。 健康な双子の眼球を摘出して瞳の観察をしたり、また双子の瞳に絵の具を注射して瞳の色を変える実験なども行ったりした。 双子の血液を入れ替える実験で、体中の血液を抜かれてしぼんだビニール袋のようになって子どもが倒れると、役立たずとしてその場で殺害した。 狂気の実験に取り憑かれた彼は、人体を切ったりつなぎ合わせたり、めちゃくちゃな人体改造手術をするなど、その行為は残忍さを増していく。 ある時、彼は双子の背中同士を縫い合わせ、「人工的なシャム双生児」を作り出した。 2つの臓器が1つの身体で機能するかどうか実験したかったのである。 しかし、縫い合わされた双子はその後、感染症にかかり体中を膿みただれさせ、悲惨な姿となった。 苦しみもがく我が子を見るに忍びないと感じた両親が手術の三日後、絞め殺したという……。 やがて、ドイツが敗戦間近になるとアウシュビッツ強制収容所も開放され、メンゲレは逃亡することとなる。 メンゲレは存命中に、息子をブラジルへ招待したことがあった。 息子が人体実験について父メンゲレに質問したところ「新聞に書かれているようなことは全て嘘だ。 私は決して人に危害を加えたことなどない」と答えたという。 1979年、メンゲレは海水浴中の心臓発作で死亡。 彼は裁かれることなく最後まで逃げ切ったのだった。 ブラジルの片田舎にあるカンディド・ゴドイという町では、「金髪とブルーの瞳」というナチスが唱えたアーリア人的な特徴を備えた「双子」が次々と生まれる。 5件のうち1件は双子が生まれるという世界平均の約10倍という驚異的な出生率。 「メンゲレと思われる医者に薬を提供された」という証言が残っており、事実、メンゲレは逃亡期間の大半をブラジルで過ごしている。 ただ、住人がたまたま双子の生まれやすい遺伝傾向だったのか、メンゲレの手によるものなのか、ウワサの真偽は定かではない。 そして、世界最高峰の民族アーリア人による理想国家の樹立を夢見ていたのだった。 (白神じゅりこ).

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【狂気の戦時医学】ナチスの人体実験まとめ【ヒトラー・ドイツ】

アウシュヴィッツ 人体 実験

「アウシュヴィッツ・ビルケナウ -ナチス・ドイツの強制絶滅収容所(1940-1945)-(Auschwitz Birkenau -German Nazi Concentration and Extermination Camp 1940-1945 )」はポーランド第三の都市で南部の中心地であるクラクフからバスや電車で日帰りで訪れることができます。 アウシュヴィッツとはポーランド南部の街オシフィエンチムのドイツ語読みで、第二次世界大戦中に造られて強制収容所が残っています。 どうも三矢()です。 突然ですが、今日から何回かに分けてアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の概要と私が実際に訪れた訪問記をお届けします。 アウシュヴィッツ・ビルケナウとはどのような場所なのか 私の体験記に移る前に、アウシュヴィッツ・ビルケナウとはどのような場所なのか簡単に勉強してみましょう。 アウシュヴィッツ・ビルケナウはナチス・ドイツによる大量虐殺の歴史を残す遺産で、 「負の世界遺産」と言われるものの一つです(ただし、「負の遺産」は世界遺産条約の正式なカテゴリーではありません)。 強制収容所の実態を隠し国際的な批判を避けるために、対外的には「善意によってユダヤ人を保護収容する場所」や「幸福世界」と喧伝されていましたが、その実は、収容者を強制労働させ処刑する場所でした。 アウシュヴィッツはユダヤ人が強制収容された場所としての印象が強いですが、 ユダヤ人だけでなく、政治犯やロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者や同性愛者など様々な人が収容されていました。 第二次世界大戦終戦間際、ドイツは大量虐殺の実態を隠そうとしたのですが、ソ連軍の侵攻が予想以上に早かったため、強制収容所の一部は破壊されずに残っています。 アウシュヴィッツ強制収容所の簡単な歴史 元々アウシュヴィッツ強制収容所は、ドイツ軍が押収したポーランド軍の兵舎を増改築したものです。 1940年に開所した。 1941年には最初のガス室を備えた複合施設「クレマトリウム1」が作られました。 収容者が増えたことにより1942年にアウシュヴィッツ近隣のブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)に第二強制収容所ビルケナウ強制収容所が建設されました。 さらに1942年から44年にかけてモノヴィッツ村周辺には三強制収容所モノヴィッツが作られました。 1943年には死の天使と呼ばれた医師ヨーゼフ・メンゲレが着任します。 1944年ゾンダーコマンドによる武装蜂起が起き、ガス室を備えた複合施設「クレマトリウム4」が破壊されましたが蜂起はすぐに鎮圧されました。 そして、1945年1月にソ連軍によって解放されます。 1947年4月初代所長であるルドルフ・フェルディナント・ヘスがアウシュヴィッツで処刑されました。 ヘスが処刑された処刑台は今もアウシュヴィッツ第一強制収容所に残されています。 アウシュヴィッツ。 ビルケナウ強制収容所は1979年ユネスコ世界文化遺産に登録されました。 アウシュヴィッツ第一強制収容所 入り口にはあまりにも有名な 「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」の文字が掲げられています。 10号棟には人体実験が行われたとされる実験施設が、11号棟には逃亡者や収容所内でのレジスタンス活動を行った者に対して銃殺刑を執行するための「死の壁」が残っています。 最初のガス室とされる施設(クレマトリウム1)は作られた後に強制収容所管理のための施設となり、戦後、ガス室として復元され今は中を見学できるようになっています。 ビルケナウ第二強制収容所 アウシュヴィッツから約3キロ離れたところに作られました。 二つの強制収容所間にはバスが走っているため容易に移動できます。 総面積はアウシュヴィッツ第一強制収容所より遥かに広大な1. 75平方キロメートル(東京ドーム約37個分)。 アウシュヴィッツ強制収容所の象徴のようによく使われる、 鉄道の引き込み線があるのもこの収容所です。 広大な敷地は湿地帯で、その上に満足な基礎工事もなく粗末なバラックが大量に建てられていました。 バラックには床がなく、寝床は腐った藁が敷かれた三段ベッドで、そこにギュウギュウ詰めで収容されたといいいます。 敷地内には送られてきた収容者が入所にあたっての手続き(頭髪をそり落としたり、消毒をされたり、囚人服を与えられたり)が行われた場所があり博物館になっています。 人体実験の被検体として使っていた双子たちが収容されていたというバラック跡地 1943年にアウシュヴィッツに着任したヨーゼフ・メンゲレは死の天使とも呼ばれ、様々な残虐な人体実験を繰り返しました。 ヨーゼフは実験対象である囚人をモルモットと呼び、加圧室に置く、有害物質や病原菌を注射する、血液を大量に抜く、熱湯に入れて麻酔なしで手術をする、様々な薬剤をテストする、死に至るまで凍らせる、生きたまま解剖するなど、囚人達に致命的外傷を与える実験を繰り返した。 メンゲレは双子に強い興味を持っていたと言われ、1944年からは双子を意図的に選別し残虐な人体実験を繰り返していたといいます。 当初の実験は身体を比較するだけであったが徐々にエスカレートしていき、子供の目の中へ化学薬品を注入して瞳の色を変更する実験や、人体の様々な切断、肢体や性器の転換およびその他の残忍な外科手術が行われた。 他にも、2つの同じ臓器が1つの身体で正常に機能するかを確認するために、双子の背中同士を合わせて静脈を縫い合わせることで人工の「結合双生児」を作ることを試みたが、この手術は成功しないばかりか単に悪性の感染症に罹患させただけだった。 一説には150万人とも400万人とも言われています。 また、ガス室や過酷な強制労働、栄養失調による衰弱死だけでなく、絶望のあまり、高圧電流が流されていた鉄条網に自ら触れ、自殺する収容者も居たとのことです。 壮絶なアウシュヴィッツを訪問する アウシュヴィッツの悲しい歴史をざっと勉強したところで次回は私が実際に訪れて感じたことなどを書いていきます。 続きはこちら.

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「ナチス人体実験」生存者の双子が語る“死の天使”メンゲレの非道

アウシュヴィッツ 人体 実験

この記事はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2018年2月) ナチス・ドイツの人体実験(ナチス・ドイツのじんたいじっけん)は、中、によりで行われた、一連の医学的なである。 収容者は実験に参加することが強要され、自発的な参加はなく、実験に関する(事前説明)はされていなかった。 通常、被験者は死亡するか、醜悪な外観が残るか、あるいはその後一生涯にわたる障害が残った。 では、医務長であった ()の指示により、選別された収容者に対して、その成果が、戦闘状態にあるドイツ軍人を助けたり、新兵器を開発したり、負傷した兵士の回復を助けたり、あるいはに後押しされた合理的なを推進すると考えられていたため、様々な危険な実験が施された。 また、は、において、同様の実験を行った。 ()は、者に対して、その治療を試みたことで知られている。 戦後、これらのは、として知られている裁判によって裁かれ、この残虐行為に対する憎悪や嫌悪感が、に関するの発展へと繋がった。 「」も参照 における起訴状によると、人体実験には以下のような実験が含まれていた。 実際には、ナチス・ドイツによってさらに多くの人体実験が行われたと考えられている。 双子への実験 [ ] 強制収容所にいた双子の子供に対して行われた実験の目的は、人体を人為的に操作できるかどうかを観察するのと同様に、双子の遺伝子の類似性と相違性を示すためであった。 実験の中心的なリーダーはであり、彼はからにかけて、アウシュヴィッツに収容されていた双子1,500人に対して実験を行った。 わずか100人の被験者のみが生き残った。 彼はで、ややに重点を置いたを学ぶ間に、「(という)簡潔な政治概念が、遂には私の人生において決定的な要素となった」と述べたと言われている。 メンゲレは、「簡潔な政治的概念」に新たな関心を示し、医学と政治の融合が、彼のキャリアの選択において大きな要素となった。 メンゲレは、「4種の人種グループを対象とした下顎部分の人種的形態学的研究 Racial Morphological Research on the Lower Jaw Section of Four Racial Groups 」というタイトルの論文により PhD を取得した。 この論文は人種は顎の形によって識別が可能であることを提起していた。 ナチスによって彼は研究の才能を見出され、、彼は占領下のに位置するアウシュヴィッツ強制収容所に異動となった。 彼は、一般的に考えられているところとは異なり、アウシュヴィッツで唯一の医者であったわけではなく、高い地位にいたわけでもない(のであったエドゥアルト・ヴィルツが、アウシュヴィッツにおける医師の責任者であった)。 メンゲレは、双子に対する的実験を組織した。 双子は年齢と性別によって分けられ、実験の合間はバラックに収容されており、異なる薬品が双子の目から注入され、色の変化があるかどうかを確認され、双子を文字通り縫い合わせてを作ることが試された。 骨、筋肉、神経の移植 [ ] 1942年9月より1943年12月頃まで、の利便向上のため、において行われ、骨、筋肉、神経の再生に関する研究と、骨の移植が行われた。 被験者は無しで、骨、筋肉、神経を部分的に除去された。 この結果、多くの被験者は、激しい痛みや切断、そして一生涯にわたる身体的不自由に苦しむこととなった。 低温実験 [ ] 、は、の予防と治療の手段を発見する目的で、凍結実験を行った。 1つの実験で、被験者はタンク1杯分の氷水で、最大5時間、耐えることを強いられた。 寒冷暴露の肉体的影響を調査する以外に、生存者を復温する方法も評価された。 冷凍・低体温症実験は、において、ドイツ軍が寒冷地の気候に対する準備不足により苦戦していたため、ナチスの最高司令部が、その気候条件をシミュレーションするように命令を下して行われた。 ロシア人捕虜に対して多くの実験が行われており、ナチスは、ロシア人の遺伝子がその耐寒力を、ドイツ人よりも強いものにしていたかどうか疑問に思っていた。 実験の行われた主な場所は、とアウシュヴィッツ強制収容所であった。 ダッハウ収容所におけるの医者であった博士は、に結果を直接報告し、1942年の医学会議において、「海と冬から生じる医学的問題 Medical Problems Arising from Sea and Winter 」の題名で、結果を公表した。 約100名が、これらの実験により命を落としたと報告されている。 マラリア実験 [ ] 1942年2月からの4月くらいまで、治療に関する免疫調査のために、ダッハウ強制収容所においてマラリア実験が行われた。 この実験は博士の指揮下で行われ、健康な収容者が蚊によって直接、あるいはメスの蚊のからの抽出物を注射され、マラリアに感染させられた。 マラリア感染後、被験者には薬剤の相対的な効力をテストするため、様々な薬物が投与された。 1,000人以上がこれらの実験に動員され、その半数以上が死亡した。 マスタードガス実験 [ ] 9月と1945年4月の間、やなどで、による負傷者の最も効果的な治療を調査するために、数多くの実験が行われた。 被験者は、酷い を引き起こす物質であるマスタードガスやなどのに意図的に暴露された後、マスタードガスによる火傷の最も効果的な治療法を見出すために、実験が施された。 スルフォンアミド(サルファ剤)の実験 [ ] 7月頃から9月頃まで、人工のである、の有効性を調査するための実験が、にて行われていた。 被験者は、負わされた傷口に、や の原因物質 やの原因菌である破傷風菌などのバクテリアを感染させられた。 戦場における負傷時と似通った条件を作り出すために、傷の両端の血管がされて、血流が阻害させられた。 木を削ることや、ガラスを傷口の中に入れることを強いられたりして、感染状態は悪化した。 有効性を決定するために、スルフォンアミドや他の薬品で、処置された。 海水実験 [ ] 7月頃より1944年9月頃まで、海水を飲むことを可能にするための様々な方法を調査するために、ダッハウ強制収容所にて実験が行われた。 一つには、約90人ののグループが、 ()博士によって、食べ物を奪われて海水だけを飲まされた。 被験者は博士により重度な傷を負った状態となった。 被験者は、ひどいになり、飲み水を得ようと、バケツの中の水を飲んだり、新しくモップがけされた床を舐めるところが目撃された。

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