時には 母 の ない この よう に。 カルメン・マキの「時には母のない子のように」: エムズの片割れ

カルメン マキ

時には 母 の ない この よう に

誰にも話せないでいる心の内を吐き出させてください。 すごく長いですが。 父は小2の時に他界して、中1の時に母親が再婚した。 が、その生活は6年で終わった。 高3の時、再び母は離婚した。 中一になったばかりの頃、母が再婚。 養父には中2の娘がいて家族4人になった。 姉になったその子をA子とするけど、ふたりの話合いで 元々姉妹じゃないんだから姉とか妹とかやめて 名前で呼び合おうってことになって、最初のうちは結構仲良くやってた。 A子は頭が良くて学年でいつも5位以内には入ってて 県内でも有数の進学校に合格したんだけど、 高校で友人関係に躓き、成績も中学の時のようなわけにもいかなくて 高1の2学期から不登校になった。 私の高校受験の年は、そんなふうだったから家の中が緊張しまくってたけど 元々私は何をやっても平均値な子供だったから フツーのレベルの高校に進学して、フツーの高校生活を送っていた。 同じ中学の親友が同じ高校に進学したこともあって 毎日楽しくて、部活生活も充実してたんだ。 そこから徐々に姉妹関係が悪化してきて ・・・と言うより、家の中でA子ひとりが孤立していた感じ。 孤立と言っても部屋から出てこないので仕方ないけど。 母も養父も色んな所に相談に行ったり、時には厳しく接したり 旅行に連れて行ったり、頑張ってたけど事態は変わらなかった。 母は一度ウザがられて突き飛ばされて、階段から落ちて怪我したこともあった。 それでも母はいつも、自分たちの再婚が影響したのではないかと気にしてた。 その母が怪我した時に養父がA子を叩いた。 それからはもう修復不可能になって、A子の好きにさせるようになっていった。 高3になったばかりの頃に、母に病院に連れて行かれた。 私自身は全く自覚はなかったんだが、 やたら大きな深呼吸を一日に何度も何度もしていたらしく、 心臓でも悪いんじゃないかって心配したらしい。 それで病院で色んな検査を受けた。 それから数日経った頃に、学校から帰ったら珍しくA子が部屋から出てきて ニヤニヤしながら「あんたしぬかも知れない病気なんだってね」って言った。 検査の結果はまだ聞いてなかったけど、その結果が出たんだと思った。 ビックリしてショックで固まってたら 「せっかく楽しい高校生活なのにね~せいぜい今のうちに楽しんで~」 みたいなことを言われて、私は部屋で震えてた。 母が帰ってきて、その事を聞いたんだ。 そしたらまだ結果は出てないって言う。 でもショックが大きかったせいか、母よりA子の言葉を信じてしまって 「本当のこと教えてよ!」って詰め寄ったりして。 で、A子に言われたことを話したら、物凄い形相で階段上がって行って A子の部屋のドアをガンガン叩いて、あんな激しい母を見たのは初めてだった。 結局のところ、母方の祖母が心臓の弁が壊れてるみたいな病気で(病名忘れた) 覚悟しておくようにって電話が伯母さんからあったのを A子が断片的に聞いて誤解したらしいんだ。 その事をA子に説明したら「あら~残念~」って笑ったんだよね。 私の検査結果は特に問題のない健康体だった。 強いて言えば心配事やストレスのような精神的な原因らしい。 当時の私、確かに悩みごとがあった。 県外に行きたい大学があったんだが、家の中がこんな状態で 母を残して家を出ることに迷いがあったから。 で、この時のことがあって母は養父と話し合って離婚することになった。 母は、誤解だったとはいえ義理の妹が心臓の病気らしいと言うことを 笑って話したのがどうしても許せなかったらしい。 A子と私を姉妹にしておくと、将来何があるか分からない、 とにかく縁を断ち切らなければと思った、と後に聞いた。 養父もこれには何も言い返せなかったようだ。 その母が昨年他界した。 還暦を迎えたばかりだった。 亡くなる半月ほど前に病室で、元養父と会った。 母のお見舞いに来てたんだが、その時初めて離婚後もずっと会ってたことを聞いた。 なんか、切なかったよ。 母は私の為に離婚したんだなぁ・・・。 そう思ったら、母と元養父に頭を下げて謝った。 でも元養父は「あの判断は間違ってなかったんだよ」って優しく言ってくれた。 A子、アル中で病院を行ったり来たりしてるらしい。 母が亡くなった時、葬儀に来てくれた元養父は涙目だった。 そして「二度と私ちゃんの前に現れないようにする。 私ちゃんは幸せな家庭を築くんだよ」って言った。 あの時の元養父を思い出すとなんか泣けてくる。

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家族がバラバラに生活を始めた時、母の胸中は #10|みさにゃん|note

時には 母 の ない この よう に

解説 [ ] が主宰する劇団「」に新人女優として入団したカルメン・マキのデビュー曲として企画され、リリースされた。 作詞は寺山が手掛け、寺山のを務めていたが作曲を手掛けている。 本曲で、カルメン・マキは1969年のに出場を果たした。 作詞の寺山は、本作を作るに際してゴスペルソングとして有名な Sometimes I feel like a motherless chil(ときどき、わたしは母親のいない子のような気持ちがする)から発想を得たとされている。 イントロとエンディングに流れる波の音は、録音スタッフが・の海岸で録音したものが用いられている。 オリジナル盤のは、による。 本作はとしてリリースされたが、のような中心部のあるレコードで発売された。 「中心孔を38. 2mm(ドーナッツ)に変更されたい方は特約店迄お申し出ください。 」との案内が記載されている。 レコード盤中心部には「45 (回転)」と印刷されている。 本作リリースから24年後の、より再録音盤がでリリースされた(規格品番:TODT-3055)。 また本作は1969年当時に録音されたヴァージョンが存在する(イタリア語詞作者は不詳)。 これはまで未発表音源であった。 このイタリア語ヴァージョンは先ず「」(、ソニー・ミュージックレコーズ)に収録・発売されて初めて日の目を見ることとなり、その後、からアルバム「」が紙ジャケット仕様で復刻された折、としてアルバムの最後に追加収録された。 なお、寺山は後に本曲をモチーフにした大人向け作品を書き下ろし、同じ『時には母のない子のように』のタイトルで出版している。 収録曲 [ ] 収録ディスク [ ] 「時には母のない子のように」() [ ]• 時には母のない子のように(演奏時間:3分22秒) 作詞:寺山修司/作曲:田中未知/編曲:• あなたが欲しい(演奏時間:2分44秒) 作詞:/作曲:/編曲:• に『』に関連して再発された曲。 再発盤のアートワークはによる。 「時には母のない子のように」() [ ]•

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時には 母 の ない この よう に

ウィキペディア より カルメン・マキ(旧本名:Maki Annette Lovelace、1951年5月18日 - )は、神奈川県鎌倉市出身の歌手、ロックミュージシャンである。 日本国籍を取得するまでの本名はMAKI ANNETTE LOVELACEであったが、現在の本名は非公表。 来歴 誕生〜歌謡曲時代[編集] アイルランド人とユダヤ人の血を引くアメリカ人の父と日本人の母との間に生まれる。 1968年、私立香蘭女学校高等学校を2年次で中退。 イラストレーターか役者になろうかと考えていた時期に、詩人の寺山修司が主宰していた劇団「天井桟敷」の舞台『青ひげ』にたまたま友人に連れられていった。 その舞台に感銘を受けた彼女は即入団を決意。 同じ年の8月に新宿厚生年金会館での「書を捨てよ町へ出よう」が初舞台(まだこの時は通称名の「伊藤牧」名義)。 この時、CBSソニーの関係者の目に止まり、歌手として契約。 芸名の「カルメン・マキ」はこの時期に舞台の練習中にたまたま思いついたものだという。 翌1969年に「時には母のない子のように」(作詞:寺山修司、作曲:田中未知)でデビュー。 17歳とは思えないその妖艶な雰囲気と歌唱力、そして哀愁のある歌いっぷりが話題を呼んだ。 「本当に親のいない子供にとっては残酷な歌」と言う批判の声があったものの、累計でミリオンセラー[1] の大ヒット。 この曲で第20回NHK紅白歌合戦への出場も果たす。 ステージにはジーンズ姿で登場し、司会者に「ジーパンもステージ衣装になる時代が来ました」と紹介された。 ちなみに、当時の彼女の曲の作曲は武満徹やクニ河内が、作詞は前述の寺山修司や谷川俊太郎が、それぞれ手がけている。 これ以降も個性派歌手として活動し、6枚のシングルと3枚のアルバムをリリースする。 前述の「時には母のない子のように」の他にも「山羊にひかれて」や「私が死んでも」「戦争は知らない」と言ったヒット曲が出た。 1970年、写真集『篠山紀信集 NUDE』(篠山紀信)でヌードを披露。 ロックへの転向 彼女のキャリアを語る上で欠かせないのはロックへの転向である。 そもそものきっかけは、「時には母のない子のように」のレコード大賞受賞でCBSソニー社長から「ご褒美」としてレコードプレイヤーとLP盤数枚をプレゼントされた時の事である。 そのLP盤の中にジャニス・ジョプリンがあった。 それを聴いたマキは衝撃を受け、1970年に突然のロック転向を表明する。 このアルバムはニューロック期の名盤として評価が高い。 また、それまで黒人霊歌をもとにしたフォークなどを歌うシンガーから、女性ロッカーへとイメージ・チェンジをした。 メンバーは、春日博文(ギター)、鳴瀬喜博(ベース、後にカシオペア加入)、樋口晶之(ドラムス、元竜童組)。 後に絶対的な評価を受けるグループに成長していくのだが、結成当初は順風満帆とは言えず、所属事務所からはキャバレー回りを強要され、時には客から「こんな曲では踊れない」とビンを投げつけられることもあったと言う。 しかし、こうした地道な活動が実を結び、1974年にポリドールからシングル「午前一時のスケッチ」でデビュー。 高い音楽性と完成度、そしてマキの歌唱力は高い評価を得、10万枚以上を売る当時のロックアルバムとしては大ヒットとなった。 これは、当時のロックが日本の音楽業界ではほとんど相手にされていなかったことを鑑みれば、快挙とも言える。 また、同年リリースされたサディスティック・ミカ・バンドの『黒船』とともに、当時の日本のロックの到達点とする評価もある。 特にこのアルバムに収録されている約12分にも及ぶ大作「私は風」は、のちにさまざまな歌手、ミュージシャンにカバーされ、その中でも特に中森明菜のものが有名である。 なお、この録音前後にマキと春日以外のメンバーが総入れ替えとなっている。 ドラムは西哲也、古田宣司の1stアルバム参加を経て、内藤正美が1975年末まで在籍。 ベースは千代谷晃を経て、1stアルバム録音の後から、後期OZの音に決定的影響を与えた川上茂幸に替わった。 1975年5月、グランド・ファンク・レイルロードの来日公演で競演。 人気・地位を確実なものとしたOZは、1976年にアメリカ合衆国のロサンゼルスでセカンド『閉ざされた町』を4か月かけて制作。 ファーストに引き続き「閉ざされた町」や「火の鳥」といった大作路線を継承しながらも風格を漂わせたものに仕上がっている。 「閉ざされた町」でドラムを担当したのは久藤賀一。 翌1977年の10月18日新宿厚生年金会館でのステージを最後に解散。 前2作とは打って変わってポップな楽曲が並んだために現在まで評価が分かれたものとなっているが、むしろ切々と歌い上げるマキの持ち味が発揮された好盤と言える。 また解散の翌年8月にはシングル盤として「私は風」、そして10月の解散ステージと同年5月の日比谷野外音楽堂のライブ音源を収録した『ライヴ』がリリースされている。 「60s:時には・・・、70s:OZ、そして時代は今・・・LAFF」とレコードの帯にあるようにレコード会社からも期待がかかっていたが結局思うようなヒットが出ず、1981年にヘヴィメタルバンド『カルメン・マキ&5X』へと発展解消。 1982年にファースト『HUMAN TARGET』、ライブ盤『LIVE X』、1983年にはセカンド『CARMEN MAKI'S 5X』をリリースし、解散。 また、この期間には村上龍原作の映画『限りなく透明に近いブルー』の音楽に参加。 「青白い夕焼け("リュウ"のテーマ)」を歌っている。 1980年9月と11月に2度の薬物禍があった。 1983年には、週刊プレイボーイ誌上でヌードを披露した。 その後1986年にはOZの初代ベーシストであった鳴瀬喜博や松本孝弘(のちにB'zを結成)などがいたセッションバンド、「うるさくてゴメンねBAND」に参加。 ライブ活動を中心とする。 1987年にはライブ盤『うるさくてゴメンねLIVE』を発表。 その後出産、育児に専念するために一時的に音楽活動の休止を宣言した。 復帰〜現在 1993年に日本国籍を取得し、音楽活動を再開。 同年、寺山修司歿後十年の企画として『時には母のない子のように』(新録音)を発表し、久保田麻琴プロデュースによる子守唄のアルバム『MOON SONGS』を発表。 そして翌1994年には「MOSES」を結成。 1995年に『VOICES OF MOSES』を発表。 1996年にはOZ時代の盟友、春日博文のプロデュースによる「UNISON」を発表。 また、この時のセッションメンバーをもとに「UNISON UNIT」を結成し、ライブを中心として活動。 この頃に現在もライブ、アルバム制作で組んでいるギタリスト、鬼怒無月と出会っている。 1998年には後藤次利、笹路正徳、春日博文、辻仁成などをプロデューサーに迎えて『SPLIT』を発表。 2000年にはライブツアー「CALMEN MAKI 世紀末を歌う」を行い、翌年にはライブ盤『CALMEN MAKI LIVE 世紀末を歌う』をリリース。 また同年に同名のアルバムをリリースし、ライブ活動も活発化させていく。 2004年には全曲アコースティックのアルバム『ANOTHER WAY』を発表。 2008年には、初の朗読(ポエトリー・リーディング)CD『白い月』をリリース。 中原中也、萩原朔太郎らの詩を水城雄(ピアノ)の即興演奏にのせて読み、歌に留まらない表現に新境地を開いた。 現在も全国各地をライブハウスを中心に精力的に回っている。 エピソード 過去のマスコミにおいての言動から、自由奔放なイメージが付きまとうが、侠気(おとこぎ)のある人柄でもある。 1978年、ギタリストCharが、芸能界から追放処分を受け、四面楚歌状態にあったとき、救いの手を差し伸べたのが彼女である。 当時、精神的な沈鬱状態で、ギターを弾く状態になかった彼を、自身のツアーにサイドマンとして誘って、ギターを弾く機会と場を与えた。 「救われた。 マキちゃんのおかげで再スタートさせてもらった」と後年Charは、デビュー20周年記念のリットーミュージックのインタビューで語っている。 この再スタートを足掛かりに、Charは、ジョニー,ルイス&チャー(後のピンククラウド)を立上げ、日本のロックの概念を変えたと言われる(商業主義からの脱却など、その意義は大きい)1979,7,14 FREE SPIRIT コンサートを成功させ、後の日本のロックを牽引して行くことになる。

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